野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

病症と対立しない野口整体―風邪の効用 4

病症を経過するという思想

結核が猛威を振った」と言われている、抗生物質がなかった時代においても、実際には結核が治癒した人は(野口先生以外にも)おり、霊療術家や他の指導者の下でも治癒体験のある人はいたようです。

 昭和18年、高山 峻という医師が『白隠禅師 夜船閑話』(大法輪閣 1933年)を出版しました。高山氏は長年結核の治療に携わってきた医師で、白隠の原文に註釈を書いています。

 氏はこの本で、結核とは神経衰弱と呼吸器病が合併した病態であり、治癒には、まず精神修養によって不安懊悩、焦燥を落ち着かせることが第一と言い、次のように述べています。 

現代の医学があまり物質的に走り過ぎ、精神的方面が全然閑却せられたために結核が蔓延し、かつ治療が困難となったものである。

・・・現在の結核患者を見ると、皆悲観絶望の結果自暴自棄になっている者が多い。こんな事では例え肺尖加答児(肺尖カタル・結核初期)の時期でも治癒するものではない。禅師の『夜船閑話』はかくしてあらたに我々に治療方針を教えてくれるものである。 

 しかし戦後、ペニシリンストレプトマイシンなどの抗生物質に代表される「特効薬」が登場したことで、「物質的に走り、精神方面を閑却する傾向」はますます強まっていきました。

 私自身、整体を勉強するまで、結核という恐ろしい感染症抗生物質の投与がなくても治るということは知らず、想像できませんでした(感染しても発症する人としない人がいるという程度の理解だった)。

 今ではストレプトマイシン耐性の結核もあるようで、世界的には風邪に抗生物質(殺菌剤)を処方するのは控える方向に進んでいますが、日本では未だ抗生物質信仰が根強く残っています。

(また、インフルエンザワクチン接種の人数は日本が世界一とも言われる。)

 こうした中、野口整体では、治療法を次々と講じ、病症と闘う(闘病!)ことは健康に結びつかないという「病症経過の思想」を基に、病症とは何か、整体(健康)とは何かを伝える努力を続けています。

 野口晴哉先生は確かに最初期から非凡としか言いようがないのですが、先生ご自身は当初から病症の本質を見つめていたのです。

 下巻『野口整体と科学的生命観 風邪の効用』で、金井先生は次のように述べています。

 師野口晴哉は、①「生きている」ということに対して、はっきりした考え方を持つことの大切さを常々説いていました。

それは、師の言葉「五分生きてきたのは五分死んできているのであり、先きに行って死ぬのではなく、今死につつあるのだという、生死に対するしっかりした気構え」という「死生観」を持つことです。

 そして同時に、②「体の変動に対してどう処するかという考えを持たなければ、生命を全うすることはできず、自分の全力を挙げて行動することもできない」と述べています。

 師の説く「全生・全力で生き、生命を全うする」という思想を理解し、体得していくには、体の変動にどう処するかが重要なことです。①が思想であり②が行法ということです。

 今回私は、この「②体の変動に対してどう処するか」を考える上での根源的な思想①として、目的論的生命観を援用したのです。

 

 続きます。

 

近代化と「闘病」―風邪の効用 3

大正・昭和に近代科学的病症観が定着した

 野口昭子夫人著『朴歯の下駄』にも載っている、昭和9年に発行された『霊療術聖典』(復刻・八幡書店)という本には、野口先生の師・松本道別師の人体放射能療法を始め、当時活躍していた15人の霊療術を紹介されています。

 当時は「精神」と「霊」「気」が同義と理解されており、「気」による野口法(野口整体)は「精神療法」と呼ばれていました。今は精神というと、意識や理性を思う人もいますが意味が違ったのです。「霊」も今ほどオカルト的に理解されていたわけではありません。

 この霊療術の多くに活元運動に類似した霊動法的な運動療法(修養法)が含まれています。また、ほとんどが神経衰弱(神経症)と呼吸器病(気管支炎や結核など)を念頭に置いた内容で、いかに多くの人(特に若い人)が不安と焦燥に陥っていたかが伺えます。

 その中に野口晴哉先生の野口法(当時22~3歳)もあり、野口先生書下ろしの原稿が収録されています(紹介文に「同氏の原稿甚だ大部なるため・・・割愛した箇所も存する」とあり、金井先生みたいだ!笑ってしまいました)。

『朴歯の下駄』によると、野口先生も若い時「肺結核の三期でもう手遅れだ」と言われたとのことで、昭子夫人はその後の野口先生について次のように述べています。

「両肺が真っ黒でも、今までも、今もこうして生きているではないか。・・・だから自分の体のことなんか考えず、人に愉気し、活元運動を誘導することに打ち込んだ。

 半年ほどして、その医者に会った。診せろといわれて、診せたら、頸をかしげているんだ。両肺とも何ともないって・・・。」

 金井先生は下巻で、野口先生が闘病という言葉を出して「大正時代に作られたこのような言葉があることによって、自然治癒が妨げられる」という話をよくしていたと述べています。

 そして、この闘病という言葉は誰が使い始めたのかをインターネットで調べていたら、金井先生の郷里、愛知県蟹江市出身の、東京帝国大学で医学を修めた推理作家、小酒井不木(こさかい ふぼく)という人に行き当たりました。

 小酒井氏は東北帝国大学医学部教授でしたが、生涯呼吸器を病み、大正15年(1926)に『闘病術』という本を出していたのです。

 下巻で、金井先生はこの顛末について、

・・・西洋医学に通じていたことから闘病という発想を得たのでしょうか。ともかく、私はとても驚いたというわけです。

・・・病症を悪視し、闘う対象としたのは、近代医学の機械論的生命観によるものです。

と述べています。

 

 明治時代に猛威を振った伝染病を予防するため、国家をあげて誠意用医学に基づく衛生思想(病原菌、病理、悪い空気や栄養等の知識)を普及させていたのがこの時代でした。

(衛生とは健康をまもるという意だが、今日では単に清潔・殺菌のみを意味する場合が多いのは伝染病が流行したことによる。)

『禅文化としての野口整体 Ⅰ活元運動』では、近代西洋医学の衛生思想について、次の引用がされています。(『野口晴哉著作全集 第一巻』昭和八年。( )は金井先生)。

新しき衛生思想普及の必要

 過去に於ける一切の衛生方法は、総て物質的であり、避苦的であり、外面的形式本位であって、その齎(もたら)した結果は、恐病思想(病気を、ただ恐いと捉える考え方)の蔓延と、之に基づいた生活による国民の精神的、肉体的抵抗力、成長力を委縮衰弱せしめた(人々が病気を恐怖したことで免疫力の低下を招き、人間的な成長を阻害した)以外の何ものでもない。

 而して現在の如き病弱者、無気力者の世界を現出せしめ、あらゆる国家的、社会的、個人的行詰りの根本的原因を造ったのだ。

(金井)

・・・ここ(衛生思想)には「生命に具わる抵抗力を発揚する」ための教育はなく、偏(ひとえ)に「恐怖心を煽る宣伝になっていた」と師は述べているのです。 

 野口先生は『霊療術聖典』で、「科学的迷信のもとに、日々、戦々恐々と扶南の裡に陽を送りつつある人々が、もし不安なき日ありとしたならば、病菌を忘れ、悪い空気、寒風、食物等々の害毒を忘れた時だけに相違ない。」と述べています。

 病気は怖いもの、闘うべきものという観念はこの時代に定着したのですね。

つづきます。

(補)全生の詞

全生の詞

 野口昭子夫人の回想録『朴葉の下駄』によると、「当時(野口先生20代初め)、活元運動をする人々の中には、それを暗唱していた人もあったと聞く」とのことです。

 

全生の詞

我あり、我は宇宙の中心なり。我にいのち宿る。

いのちは無始より来りて無終に至る。

我を通じて無限に拡がり、我を貫いて無窮に繋がる。

いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。

我動けば宇宙動き、宇宙動けば我亦動く。

我と宇宙は渾一不二。一体にして一心なり。

円融無礙にして已でに生死を離る。況んや老病をや。

我今、いのちを得て悠久無限の心境に安住す。

行住坐臥、狂うことなく冒さるることなし。

この心、金剛不壊にして永遠に破るることなし。

ウーム、大丈夫。

野口晴哉

日本の近代化過程と医療―風邪の効用 2

 野口整体成立の時代背景と野口先生の病症観

 野口整体と西洋医学 1・2 でも書きましたが、日本の近代化と医療、そして野口整体の起こりについて振り返っておこうと思います。

現在、日本の医療は、医療人類学的には次の五つに分類されています(『気で治る本』より)。

A 普遍的医学(西洋医学

B 東洋医学(中国伝統医学など)

C 民間医学(治療師が行う医療全般)

D 家庭医学(自身や家庭で行われる看護や食事療法など)

E 呪術的治療(霊的治療の類)

 江戸時代までの日本の医療は、幕府公認としては漢方医学、そして蘭方と呼ばれたオランダ医学がありました。その他は、B・C・D・Eが混然としていたようです。

 明治七年(一八七四年)、医制が発布され、医療が西洋近代医学に一元化され、東京帝国大学医学部を中心とする医学教育体制が敷かれました。

 そして近代初頭~終戦直後までは「細菌性・伝染性疾患の時代」であり、明治初頭にはコレラ赤痢が猛威を振るい、結核は死につながる病だったのです。

 西洋医学は、感染症が病理研究は進んでいましたが、治療にすぐ結びついたわけではなく、明治政府は近代化を西洋諸国に誇示するため、西洋医学を正統医学としたのです。

 人々の間では、感染症に対する恐怖、また近代化に伴う社会不安や、不適応の問題が広がり、健康不安を抱える人が増加していました。

 こうした背景の下、近代化が進んだ明治末から大正・昭和の初めにかけて、各種の健康法や代替療法の実践者たちが現われたのです。それらは「肚」「坐」「呼吸」「丹田」「気」など、日本的な身体性を基礎とした修養法が中心で、身体と心の安定を目的としていました。

 また、海外の代替療法カイロプラクティックなどの手技療法)も同時代的に流入し、電線・光線などの機械療法が登場しました。大正・昭和の始めは様々な治療法・治療家が百花繚乱という時代だったのです。

 野口整体は、そうした時代背景の下に生まれました。上巻『野口整体と科学』はじめに で、金井先生は次のように野口晴哉先生の文章を引用しています。

 師は、一九六六年の誕生祝賀会で、当時を振り返り「関東大震災の後で、初めて病人に手を当てたのが十六日であった」と、自然健康保持会発足当時からの思いを次のように語っています(『月刊全生』改行あり)。

野口先生誕生祝賀会

…ともかく修繕したり庇ったりして健康を保とうという方法は人工的の健康を作ろうとして却って自然の健康状態を弱くしてしまうのではないだろうか。余分に護れば弱くなる。庇えば庇うほど弱くなる。人間の体はそういう構造に出来ている。

弱ければ弱いなりにその体を使いこなし自分の力で丈夫になって行く。そういう健康に生きる心構えが要るのではないかと思う。病気になると自分の中にある潜在体力をすっかり棚に上げてしまって、一切他人任せにして治してもらおうとする。

…健康を保とうとする人工的な方法は結果として体を弱くしてしまう。そういう人工的な健康ではなくて自然の健康を保つ考え方が要るのではないかと、集って来た人達に話をしまして大正十三年の九月十八日に自然健康保持会というのを作りました。…それからずっと私は自然健康保持という面に努力して参りました。

 

 野口先生はこうした考えの下、道場に「全生の詞(うた)」を掲げていたと言われます。野口整体(当時は野口法と言った。最初の肩書は精神療法家)は治療から始まり、野口先生は多くの当時の西洋近代医学では治療困難な病者を救ってきました。しかし、当初から他の治療家とは異なった眼で「病」や「生命」というものを観ていたことがこの内容からも伺えます。

続きます。

生命現象には目的と意味がある―風邪の効用 1

生命の意味や目的を問わない科学 

 今日から、少し飛びますが、未刊の本三冊目・『野口整体と科学的生命観』第一章 風邪の効用―「自身の生命力を拠り所とする」生き方 に入ろうと思います。

 ここの内容は、上巻そして『禅文化としての野口整体 Ⅰ 活元運動』という本、下巻にも入っており、ここでは総合的に原稿を見渡しながら進めていく予定です。

 金井先生は下巻第一章の始まりで次のように述べています(一 身体(無意識)に具わる「生命の合目的性」 1)。 

・・・師(野口晴哉)は、西洋近代医学が最も発達した時代に台頭した「気の世界」の達人で、その生命哲学は「気の思想」というものでした。

・・・私は「風邪の効用」という言葉を、師の著書『風邪の効用』に表わされている内容の大本にある、生命の「合目的性」を象徴するものとして位置づけています。

さらに私は、近年の学際的な研究を通じた現在、「風邪の効用」を中心とする師の思想「全生」は、明治の近代医学導入の時代から現在に続く大勢である、西洋医学の機械論に対する目的論と捉えるようになりました。

そして野口整体は、西洋医学の「科学の知」に対する「禅の智」というものであり、近代科学の「外を捉える知」に対し、東洋宗教の「内を捉える智」なのです。

こうして私は、西洋医学の科学性を、野口整体の宗教性に相対化して理解することができました。

野口整体を象徴する「風邪の効用」という思想を、西洋での近代合理主義哲学による機械論的生命観によって失われた、目的論的生命観を通じて語るのが本章です。 

 ここで使われている「目的論(的生命観)」というのは、「生命は外界に対する適応力と抵抗力を備えており、生命活動には何らかの目的・意味がある。主体性と成長・発展に向かう方向性がある」と観る、古代ギリシアの哲学に代表される生命観です。

 生命の「観方」としては非常に普遍的で、「生気論」的な観方が基にあります。生気は東洋で言う「気」のことです。

 金井先生がこの目的論や生気論について考え始めたのは、科学について学び始めたのと同時期で、湯浅素雄氏の次の文章がきっかけでした(『「気」とは何か』)。

 

目的論と科学

…近代科学の歴史は天文学や物理学のような物質現象を支配する因果関係の探求から始まったから、生きるための目的とか意味といった事柄は考慮の対象にならなかった。そこでは、事実がそのようにあるということだけが問題なのである。

このような考え方を生命現象にまで適用するとすれば、生物学も医学も科学であるかぎり、感覚(一般的な視覚のこと)的に認識可能な事実の中に見出される因果関係を明らかにすることだけを任務とすべきである、ということになる。

十九世紀の生物学には、生命体に特有の力が存在することを認める生気論vitalismのような考えもあったが、今世紀には否定されてしまった。生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない。

近代科学はこのように目的論を否定する考え方(生きるための目的・意味については考慮しない)を前提しているのであるから、当然のことながら、人間の生そのものについても、何の意味も価値も認めることはできない。

科学の立場からみれば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。無論、個々の科学者 ―― たぶんその中の多くの人たち ―― は、人生の意味とか価値とかを認めているであろうが、近代科学は、科学の立場としてそれを認めることは決してできないのである。

 金井先生は上巻第一部第三章二1(科学とはこういうものか!)で、この文章に続き次のように述べています。長いですが一気にどうぞ!

  このように語られている言葉に、「科学とはこういうものか!」とズシンときたのです。

 では、「生命の目的」、その「意味や価値」を問うものはと言えば、それは哲学と宗教に他ならないのです。

 私はこの湯浅氏の文章によって「人間が生きる意味や価値」とは無関係な「科学の立場」というものを初めて知り、「近代科学と東洋宗教」という世界観の大きな相違を知ることになりました。

・・・近代医学においては、肉体(物質)的な「事実がそのようにある」ということを研究するのであって、「健康を保つための生き方という考え方」は、医療では指導されません。こうして、近代と現代における機械論的・客観的身体観(心を切り離して体を捉える観方)が作り出されました。

 これは医療と宗教が分離したのであり、近代医学導入(一八七四年)百五十年後の今日、日本の伝統的な「修養・養生」は、若い人々の知らぬものとなりました(野口整体は伝統に立脚している)。

 この客観的身体観に多くの人々が支配されるようになったのが、現代人の「身心」の問題につながっているのです。

「科学の立場から見れば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。」ということは、無機的な「死生観」をもたらすもので、これが、敗戦後「道」を失った日本の、ことに若い世代においては、倫理観を持てなくした要因となっているのです(それで「生き方」が分からなくなっている)。

 この金井先生の文章は、これからから始まる内容の始めとしてふさわしいものです。次回に続きます。

(補)『臨済録』で述べられている「天心」について

 臨済録を読みまして一番面白かったのは、生まれたままの自然の心の状態で、つまり赤ん坊と同じ心でというが、赤ん坊の心では役に立たないのだ・・・。と。

 いろいろ迷い迷って、くだらない妄想などを描いて、そういうものを通してなお、生まれたての赤ん坊の心で居られる者は、自然にある赤ん坊の心とは異なるものがある。

 生まれたての赤ん坊には天心などないのです。天心しかないから、天心というものはないのです。

 いろいろ人智を尽くし、迷い、なだめ、悪いことをし、計画し、回心し、それでもまた悪いことを思い浮かべて・・・というようなことを経ていって、天心の尊さというか赤ん坊の時の心の尊さが判ってき、それに帰って来得たならばそれは天心である。

 天心とはそういうものだと、臨済は別の言葉でそう云っております。大変面白いと思う。

 つまり逆に言えば、鍛錬して、しぬいていかなければ、生まれたときの天心の状態を保つことができない。だから大人になって天心を保つのには鍛錬が要る。

 何故かというと、いろいろの雑念・妄想は、夏草よりもっと激しく心に生い繁るからであります。そういう中で成長を止めないで、動きを鎮めない。

 野口晴哉

近代仏教と釈宗演―後科学の禅・野口整体 10

釈宗演が志した仏教の近代化

 1891年、鈴木大拙(貞太郎)が参禅した鎌倉円覚寺の今北洪川師(1816~1892)は、元は大拙氏の父と同じ儒家でした。そして明治の初めに身分のある人(士族)と出家者に限られていた参禅の門戸を開き、一般人を受け入れる道場を始め、「人間禅」(人間形成を目的とする在家主義の禅)を提唱した人です。

 しかし一八九二年、大拙氏が参禅中に今北洪川師は亡くなりました。大拙氏の今北師に対する想いは強かったようで、『今北洪川』という著書があります。

 その後、32歳で法を嗣いだ釈宗演師(1860~1919)が師となりました。大拙氏は晩年、釈師がどんな人かを聞かれ、一言「破天荒」と答えています。釈宗演師は若い時、吉原に行き酒も飲んだという奔放な人だったようですが、苦しむ人の心に応えたいという想いの強い人であったとも思われます。

 今回は、夏目漱石も参禅した、釈宗演師を中心にお話していこうと思います。

 釈宗演師は1860年(幕末)、福井県に生まれ、10歳で得度し、今北洪川師に見込まれ、18歳からは鎌倉円覚寺に入りました。

しかし、1885年25歳の時、宗演師は洪川師の反対を押し切って、西欧化主義の急先鋒であった慶応義塾に入学します。

 日本では明治維新後、国家神道を成立させるため、明治元年(1868)の神仏分離令(従来の神仏習合を禁止)を発布しました。これに伴う廃仏毀釈運動(「仏を廃し釈尊の教えを毀す」暴動)によって、仏教は壊滅的な打撃を受け、仏教美術などの文化財が海外に多数流出したのです。

 その影響は明治に入っても続いた上、仏教界が古い体質のままで、近代を生きる人々の心に応えるものではなくなっていました。宗演師は、古い因習や迷信を整理し、近代に適応した仏教の精神を説こうと志したのです。

 宗演師は慶應義塾別科を卒業後、1887年山岡鉄舟福沢諭吉の勧めでセイロン(スリランカ)に渡り、そこで二年余り上座部仏教の僧侶としての体験を積み、仏教の源流を学びました。

 1889年に帰国、その後円覚寺派管長となり、宗派を超えた仏教を考える協会を結成しました。この協会のメンバーが、1893年シカゴで行われた万国宗教会議の参加者となったのです。

 当時、仏教は欧米の知的階級に注目され始めていたものの、小乗仏教上座部仏教)がブッダのことばを伝える真の仏教と認識されていた上、一般大衆には仏教そのものがまだ知られていませんでした(パーリ語の伝統が小乗・上座部仏教サンスクリット語の伝統が大乗仏教で、共通の土台を持つ)。

 そこで、大乗・小乗に共通する普遍的な真理を、「因果法」という西洋人に理解しやすい論理を用いて説いたのです(鈴木大拙がこの原稿を英訳。英題は‘The Law of Cause and Effect, as Taught by Buddha’)。

 釈宗演師は、この世界が、心の二つの元因「性・情」によって出来上がると説きました。

性とは「本覚の自己」(悟りの智慧・本来の自己・仏性)。

情は「不覚の一念・無明の心、妄想・五情の所欲」(感覚を生じる、眼・耳・鼻・舌・身の五根のこと。また、それから起こる情感)。 

「情」を因として自他や善悪、また世界の万物が生じ、世界のありようは情のありようによって決まる(果)、というのが仏教の「因果法」です。

 そして「情(感覚・感情)」を清め(六根清浄)、性(心の本性)を自覚する行を積むことで、漸次(輪廻転生をも通じ)心が進化していくことを目的とするのが仏道であると説いたのです(これは大乗・上座部、すべての宗派を超えた仏教の普遍的な説)。

(註)宗演師の説く因果法の因とは、性・情、二つの「心」の要素を指すが、近代科学では「心」の一切が除外されている点に注意。

 この内容が東洋思想関連の出版社を営むポール・ケーラスの心を捉え、宗演師との縁が昭二、鈴木大拙が渡米する道を開いたのです。

 東洋宗教の世界は、停滞・衰退の時期に入ると、その時代の人が身体行を通じて教えに命を吹き込み、「アップデート」することでその命脈を保ってきました。このような人を「中興の祖」と言い、禅では江戸期の白隠禅師が有名です。

 伝統(宗教心)を失った近代以後の人間の心に仏教をもたらす、という釈宗演師の取り組みによって、宗派や教団という枠組みではなく、個人と仏教という新しい関係性が打ち出されました。そして明治時代から「近代仏教」という新たな歴史区分ができたのです。

 今、近代の思想や教育などが非常に注目されており、釈宗演師や鈴木大拙氏は批判・肯定両面で論じられています。興味のある方は是非。

 金井先生は「葬式仏教」は嫌いでしたが、「山川草木悉皆成仏」という言葉は非常に好きでした。仏典にある正式な言葉ではないそうですが、日本人の宗教心を端的に表す言葉であると思います。そして禅語の「静中動、動中静」、「随所作主、立処皆真」も。

 以前、野口晴哉先生の「『臨済録』は丁寧に生き物をみて来たと、そう今でも感心しています。」という言葉を紹介しました(後科学の禅・野口整体 4)。

 釈宗演師の説く仏教にも通じますので、『臨済録』についての野口先生の言葉をもう一つ紹介し、結とします(『月刊全生』)。