野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

背骨と日本人の感性―気の思想と目的論的生命観16

人間を観る眼と背骨

 今回から下巻第七章の最後の主題に入ります。

 ここでの内容は、2006年から始まった、月刊MOKUという雑誌に金井先生が連載した記事の最終回が基になっています。これは、私が整体について自分も学びながら、先生の文章づくりと編集の手伝いをする本格的な修行が始まった思い出深い記事でした。

 この中に出てくる臼井栄子先生は、金井先生が四段位の試験を受けた時の試験官で、臼井先生と野口先生の二人だけが、まだ若かった金井先生を認め、合格させたということです。

 金井先生は中巻『ユング心理学野口整体』潜在意識は体にある!― 自分のことから始まった野口整体の道(『手技療法』取材記事に加筆・推敲)で、そのことについて次のように述べています。

  師は私の素質に対して、そして、その素質から出た少しばかりの光に対して、励ましの意味で四段位を出されたものと思っています。「進み得る方向において観る」ということでしょう。

 しかしこの二人(試験官は三人おり、臼井先生以外の二人の男性のこと)には、当時の私にそれを観る力はなかったと思います。特に一人の方は、師亡き後、協会に残らない私への不満を臼井先生にぶつけたそうです。「なぜ、あれに四段位を出したんですか!」と。そしたら臼井先生が「あんたがあの世に行ったら、野口先生に聞いてみなさいよ」と切り返されたそうです。

・・・師ほどの「徳を以ってはじめて理解し得るもの」というとなんですが…、他の人間にはほとんど理解されてきていないのです。

 

(金井)

 戦後半世紀以上を経た今日の日本社会では、教師や会社の幹部、国の官僚や政治家といった指導的立場にある人たちの統率力の低下が問題となっています。

 このことと、日本人の「身体」における「背骨」の意味を私の立場から述べてみたいと思います。

 

日本の身体文化の中心には背骨があった

 師野口晴哉の弟子で私の大先輩、臼井栄子先生という存在があり、師は亡くなる三週間程前、最高位の九段位を与えられました。

 私は後に、臼井先生の背骨の観察をすることがありました。それは、ある時ふいに「金井さん、背中を観てくれる」と言われ、観たのです(実は先生が「私の手」を観ようとされたことが後で分かった)。

 先生は細身の方なのですが、その背骨に触れた時、見た目の細さからは想像ができないほど背骨がしっかりされていたことにとても驚きました。

 背骨の一つ一つがはっきり、しっかりしており、全体が通っていたのです(どの世界においても「できる人」は背骨が違う)。

 明治までの日本人の背骨は「シャン」としていたと言います。それは「型」の文化があったからです。

 また至る処、各界に大物がいたと言います。「大物とは何か」、それは「道(みち)」に達していた人です。「達人」と呼べる人たちです。

 「道に達する」とは、「真理に到達している」ということです。

 「型」とは「肚(はら)」をつくるものであるとは、七十代後半以上の人たちなら、こういう方面に関心が薄くとも、それなりに理解されていることと思います。

 しかし、六十歳以下の人たちと出会う中では、「肚」という言葉すら知らない人を見受けます。この傾向が、年齢が下がるにつれ著しいものとなることは、現代の若者は「身体の中心(心の中心)」を失っていると、言明することができます。

「明治の人は一本筋が通っていた」とは、背筋が通っていたことで、「善悪の基準の明確さと意志の力を持っていた」ことを意味しています。判断力、真贋(しんがん)を見抜く力、こういった力が他者の信頼を得て、指導力となり統率力となっていたのです。

 そして自分の言葉と行動に責任を持つという強い意志、態度がありました。指導するとは、相手に対して責任を持つということなのです。

 これは「腰力(こしぢから)」によるもので、それは「立(りつ)腰(よう)(腰を立てる)」することで背骨を「身体の中心軸」とすることができていたからです。

 野口整体の道を歩んで五十年、健康上はもちろん、頭脳や精神の働き、感情や情緒の豊かさ、意志の強さ、夢や志を持つ力など、人間が活き活きと生きていくために、腰が決まり、背骨が自身の中心軸となることがどれほど意味のあることかを伝えずにはいられません。

 

伝統的養生と近代医学との相違―気の思想と目的論的生命観15

健康と人生の質を統合する生命の智・養生

  今回も、立川昭二氏の『養生訓に学ぶ』からの内容です。健康とは医療に管理してもらわなければならないもので、体のことは自分ではどうしようもない・・・と思う人が多いのが現代ですが、野口整体の理念は「自分の健康は自分で保つ」にあります。

 このことが人生にどのように関わるか・・・という点を考えつつ、読み進めてください。

 『養生訓に学ぶ』

 「天命を楽んで身ををはるべし」

…江戸時代の日本人の平均寿命はきわめて低かった。寺院の過去帳や人別帳から推定すると、江戸後期の平均死亡年齢は男女とも四十歳前後であった。

こうした死亡年齢の低さは乳幼児の死亡率の異常な高さによるものであり、五十歳以上の平均死亡年齢は七十歳代と推定され、今日とあまりひらきはない。

 西鶴芭蕉は「人生五十」であったが、江戸時代にも八十五歳まで生きた貝原益軒と同じ長寿者はかなり存在していた。(中略)

 

 人の身は百年を以て期とす。(中略)短命なるは生れ付(つき)て短きにはあらず。十人に九人は皆みづからそこなへるなり。こゝを以(もって)、人皆養生の術なくんばあるべからず。

(人のからだは百年を寿命とする。短命なのは生まれつき短いのではない。十人中九人は自分で自分の健康を損なってしまうのだ。このことを以て、人は皆、養生の術なしで生きるべきではないというのである。)

 

 今日の日本人は世界第一の長寿国として「人生八十」の時代を迎えた。このことは日本人の人生観を大きく変えたが、それはまた「いのち観」にも深い影響をおよぼした。

とりわけ高度医療が生命の延長にめざましい成果を果たしているのを見聞きしている私たちは、知らず知らずのうちに寿命というものを医療と直接むすびつけて考えるならわしになってしまった。

つまり病気や老化によって死を迎えることは今も昔も変わりないが、人の死はその病気や老化をうまく医療で防ぎ救うことができなかった結果であるとのみ考えるようになった。「手遅れ」という言い方があるが、もっと長生きできたのに手遅れで「寿命をちぢめた」と考える。

・・・『養生訓』には、こうした「いのちへの畏敬」というコスモロジー(宇宙観)が、しっかりとその根底を貫いていたのである。

 (金井)

 野口整体では、病症を体の「要求」と捉え、自然経過することを通して、自身の身体を整えていきます。「整体」に進むと、「裡の要求」に沿った生活を求めるようになりますから、これまでの生活を改めたくなってもきます。「身体のありようと生活」は心の「内と外」ですから、内が整わなければ外側も整ってこないのです。これが成長の道筋なのです。

 

 デカルトに始まった近代合理主義は、意識を感情や無意識から切り離し「理性」を発達させてきました。これにより客観性を重視する自然科学は発達したのですが、科学的自然観が心の深層にある「無意識の問題」を無視して発展してきたことにより、社会に神経症や精神病という心の病気が広がってきたのです。

 これに対処する必要から生まれてきた実際的な研究がフロイトユングによってなされたのでした。日本では師野口晴哉が、最も近代医学が発達した時代に野口整体の体系を築いたのです。

 科学である近代医学は外に目を向ける ―― 人体構造上の物質に着目して機能を論ずる ―― ものですが、東洋思想である「養生」は内に目を向けていくものです。

 科学教育で学んだ現代人は、学校で自分の「心のはたらき」とは関係のないもの ― 科学的知識 ― によって評価されてきました。それで自分の心も分からず、またその力を使うこともできないのです。

 成人(一応肉体として一人前)になってからも成長(精神的に)するということは、自分の中にある力、自分にしかないはたらきを、自分の世界において使っていくということです(これが「自己実現」なのです)。

 このためには内面に存在する自身の核を見出し、その核を膨らませて育てなければなりません。自分にしかできないことは、自分がしたいことなのです。

 この、したいという「自発性」こそ「自己」を見出す鍵となるのです。

 頭のはたらきで科学は発達し、それは外的事物を極めることでしたが、この意識が外に向いたままでは「自分がしたい」ことは分からないのです。

 その為に、現代こそ「裡の要求」を感じられるという「生の養い方・養生」が必要なのです。

 

志を全うするための「養生」ー気の思想と目的論的生命観14

人生後半の意義が失われた現代

  今回は「若い時の苦労は買ってもせよ」という言葉の意味を考えつつ、読んでみてださい。では立川昭二氏の「養生訓」に戻ります。

 

(金井)

 立川昭二氏は、なぜに「養生」の必要があるのかといえば、それは人生の喜びが五十歳を過ぎなければ、実はわからないからという、益軒の文章を引用し次のように述べています(『養生訓に学ぶ』)。

 

「長生すれば楽(たのしみ)多く益多し」

 人生五十にいたらざれば、血気いまだ定らず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世(せ)変(へん)になれず。言(ことば)あやまり多く、行(おこない)悔(くい)多し。人生の理(ことわり)も楽(たのしみ)もいまだしらず。五十にいたらずして死するを夭(わかじに)と云(いう)。是(これ)亦(また)、不幸短命と云べし。長生(ながいき)すれば、楽(たのしみ)多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能(よく)せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なることも、長生せざれば得がたし。こゝを以(もって)養生の術を行なひ、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成(なる)べきほどは弥(いよいよ)長生して、六十以上の寿域(じゅいき)に登るべし。

 

…江戸という社会は、ある意味で言うと、老いに価値をおいた社会であったと言える。それにたいし現代の日本は若さに価値を置いた社会と言える。エネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、それは力や量の論理であり、若さの文化と言い換えることもできる。

(これが西洋近代科学文明)

 江戸にはエネルギーやスピードといった価値や、力や量といった論理はなかった。暮らしは自然のリズムに沿って流れていたし、人や物もゆっくりと動いていた。人がその一生で蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立った。

 そうした社会は年寄りの役割が厳然としてあり、また社会そのものが年寄りのゆっくりとした動きをしていた。今言うところの情報も若者より老人の方が豊かであった。

 江戸に生きていた人は今日とちがって人生の前半より人生の後半に幸福があった。「老いが尊くみられた」江戸時代、現代人の最高の願望である「若返り」という思想はなかった。

「天命を楽んで身ををはるべし」

…江戸時代の日本人の平均寿命はきわめて低かった。寺院の過去帳や人別帳から推定すると、江戸後期の平均死亡年齢は男女とも四十歳前後であった。

 こうした死亡年齢の低さは乳幼児の死亡率の異常な高さによるものであり、五十歳以上の平均死亡年齢は七十歳代と推定され、今日とあまりひらきはない。

 西鶴芭蕉は「人生五十」であったが、江戸時代にも八十五歳まで生きた貝原益軒と同じ長寿者はかなり存在していた。

…それでは、養生とは何かをひたすら畏れ慎み惜しむためなのか―。養生はただ健康で長生きするためのものなのか―。そもそも、養生するのは何のためなのか―。…

 

楽を失はざるは養生の本」

およそ人の楽しむべき事三あり。一には身に道を行ひ、ひが事(過ち)なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快(こころよ)く楽むにあり。三には命ながくして、久しくたのしむにあり。富貴にしても此三の楽なければ、真の楽なし。…

 

 ここでいう「楽」とは、もとより現代風の享楽的な楽しみではない。健康で長命をたもち、真(まこと)の楽しみを楽しむことである。

 そして、ここにも楽しみは人生の後半にあるという考えがみられる。健康で長命でありたいのは、ただ長生きするだけではなく、老年において人生の真の楽しみを楽しむためである。

 現代のように若いときに楽しむのではなく、むしろ老いてから人生を楽しむ。益軒自身若いときより老年のほうが人生の楽しみを心から楽しむことができた。

 人生を楽しむ、そのための養生なのである。貝原益軒の『養生訓』というと、堅苦しい禁欲的教訓とのみ受けとられがちであるが、じつは、そこには人生を楽しむという思想が根底を貫いているのである。

 

(金井)

 益軒はただ長生きするために養生を説くのではなく、真に人生を味わうために、自身の志を全うするために必要な養生を説いているのです。

 河合隼雄氏は、やはり「人生後半の意義」を重視したユングの思想について、次のように述べています(『ユング心理学入門』培風館)。

…ひとは六十歳になって、なぜ三十歳の若さにしがみつこうとするのか。六十歳には六十歳の味があるはずである。昔からあった「老人の叡智」はどこへ行ったのか、とユングは嘆く。

アメリカでは老人は若さを誇り、父親は息子のよき兄となり、母親は、もしできることなら、娘の妹でさえありたいと願う。結局、このような混乱が生じてきたのも、今まで、あまりにも老人を尊重してきたことの反動であろうが、こうまで極端に走ってしまうと、まったく意味のないことである。

…このような人生の後半の意義に関するユングの説は、東洋人にとっては目新しいものではないといえるかもしれぬ。孔子の言葉をもち出すまでもなく、東洋の宗教や哲学は実際に老人の叡智に満ちているということができる。それではユングの説を日本人に述べることがまったく無意義であるかというとそうともいいがたい。アメリカについて述べたのと同じような理想の父や母になろうと努めている若い両親が日本にいないとはいえぬからである。

  河合氏がこの本を著した43年前には、「アメリカ的老父母」という危惧は日本においてはわずかにしかなかったのですが、果たして今日はどのようでしょうか。

 ユングは、「人生観」という視点からも西洋近代文明の問題点を指摘し、「自我から自己への中心の移動」を為す意味と重要性を説きました。「中心の移動」により、現代的な「老いる」というニュアンスでない、「老成」という「大成」があったのです。

 この近代化百五十年の歴史において、あまりにも西洋近代文明の価値観に翻弄され、自国の文化の不易流行としての価値までを失ってきたのではないでしょうか。

 

「腰・肚」文化は人間的成熟に向かうためにあったー気の思想と目的論的生命観 13

成長する可能性を秘めているから「修行」がある

 (金井)

 明治政府は、西洋近代医学を国家医学と定め、江戸以来の伝統医療を正当な医療から排除しました。

 こうして西洋医学が普及したことで、現代では「体は専門家に治してもらうもの」、また「勝手に毀れるもの」という機械論的生命観が蔓延してしまいました(この背景には、西洋医学が解剖学から発達しているという面がある)。

 さらに、科学的に高度に発展した現代社会は、本来の「人間の自然」である「成長・成熟」へと向かうことを困難にしました。

 これは世界的な様相のようですが、文明の高度化に伴い、生活の中で身体を使うことが少なくなったことに加え、日本における敗戦後の科学的教育と「腰・肚」文化(=道)の喪失は、「成長・成熟」をさらに困難なものにしたと考えます。

 体丸ごとで生きていない、頭が「感情や魂から離れている」ことで、主体性を発揮していないというのが「肚」を失った現代的な特徴です。これは、科学的身体観・生命観の基に心身二元論があるからです。

 伝統的な「腰・肚」文化と東洋宗教が持つ「修行」という人生観を喪失したことは、日本人の「宗教心の喪失」と言うべきものと考えています。

 私はもとより、「整体」とは、道元(註)の身体を心より上位において重視する態度「身心学道」と同様であると思ってきました。

 これは調身・調息・調心に通じるもので、禅や「腰・肚」文化とは統一体を持って生きることであり、「統一力」を行使して生きるというものです。

 私は、野口整体の持つこのような観点が深い意味でまだまだ多くの現代人に理解されていないのは、「腰・肚」文化の喪失と機械論的生命観に無意識的に支配されているからと考えるものです。

「統一力」発揮のため、脊髄行気法に目標を置き、「立腰」のための「正しい正坐」ができるよう導くのが野口整体金井流です。立腰は「闊達(物事に捉われぬこと)」であるために肝要なことです。

 日本の伝統的な「修行」と「腰・肚」文化が失われ、先述のように「心身の問題」が起きている現代、無意識(生命)の働きを理解し、生命に対する信頼を取り戻すためには「目的論」が必要と考えました。

 野口整体は、近代科学発達以前の伝統的な生命観であった目的論を、「後科学の禅(科学の後にやってくる禅)」として現代的に展開させたものと言うことができます(ここには、もちろん、東洋的な自然観が、そして師野口晴哉の独創的な生命哲学が展開されている)。

 

 日本には「目的論」という言葉は無かったのですが、「腰・肚」文化という伝統があり、長きに亘り「人生は修行である」という通念がありました(私が子どもの頃まで)。

 この時代まで、このような身体行を連想させる目的論的な教えがあったわけですが、敗戦と西洋医学全盛の時代を通じてこれを喪失し、現代人に適合した「生きるための思想(宗教)」がない今日では、機械論的生命観のみとなりました。

 私は、戦後教育(家庭教育を含む)で育った「団塊ジュニア」と呼ばれる世代の若者との、精神的基盤の大きな違いによる溝をどう埋めるかが課題と考え続けて来ましたが、この溝とは、目的論的生命観(修行的人生観)と機械論的生命観(科学的世界観)の間の溝であったと直観し、ようやく「謎が解けた」という思いがしたのが、2010年の5月8日の朝でもありました(2019年5月8日ブログ参照)。

 ドイツの哲学者・心理療法家のデュルクハイム(1896~1988)は、次のように述べています(『肚 人間の重心』)。

序章

ノイローゼ(神経症)の背後に、人間一般にかかわる問題が潜んでいることが、今日次第に明らかとなっている。すなわち、成熟の問題である。成熟ということを最も深い意味で理解したとき、それは病人にも健康な人にも同じことを意味している。

それは、人間を自己の本質へと徐々に統合していくことであって、その点で人間は人間存在そのものに関与するのである。ノイローゼの人とは、成熟が特別な形で妨げられている人のことである。

未成熟は現代の癌である。成熟することができないことは現代の病である。

 ここに「未成熟は現代の癌である」という言葉がありますが、このような原因は、物事の科学的観方・機械論的世界観のみの現代的な風潮に原因があると考えています。

 それは、体の症状を機械論的に「物理的な原因(物質的因果関係)でこうなった」と、また「外部からのストレスでこうなった」とだけ考えること、これは「私自身は無関係(責任がない)」と捉えることですが、これでは生活における精神の向上・人間的な成長がないのです。

 目的論的に捉える、それは、現象(人間関係において起きた身体や精神の症状)を自身の心・感受性との関係において考えることで、「自身の向上」に向かうことができるのです。

 

病症の経過を「待つ」―気の思想と目的論的生命観12

江戸時代の病症観

 今回は、『養生訓』の病症観についてです。立川昭二氏にお会いした時、野口晴哉先生の『風邪の効用』を読んで間もなく『養生訓』の研究を始めたとのことでした。

 そして子どもの時も、若い時も体が弱かった立川先生は、病症というものの教育的効果を話してくださいました。立川先生はすでに亡くなりましたが、長寿を全うされています。では今回の内容に入ります。

 

「病の災より薬の災多し」(『「養生訓」に学ぶ』)

 現代人は、病気といえばすぐに病院、痛いといえばすぐに医者、熱が出たといえば急いで解熱剤というように医薬に頼ろうとする。苦痛を辛抱強く耐えるとか、病気の経過をじっと待つ、という習性を失ってしまった。病気は病院がすぐに治すもの、苦痛は医者がすぐに取ってくれるもの、熱は薬や注射が下げてくれるもの、と医者も素人も思いこんでしまっている。

(師野口晴哉の生涯は「病気は医者が治すもの」という時代風潮に対する啓蒙活動)

 しかし、江戸時代には、医者もいたし薬もあったが、だれも病気は医者がすぐに治してくれるとか薬を飲めば熱はすぐに下がる、とは思っていなかった。益軒も、健康のためには医者や薬をたよるより養生にたよるべきである、と言っている。

 

 人の身をたもつには、養生の道をたのむべし。鍼灸と、薬力とをたのむべからず。 

(金井)

 立川氏は、貝原益軒野口晴哉・医聖ヒポクラテスに共通する「経過を待つ」という態度について、次のように述べています(『養生訓に学ぶ』)。

 

「その自然にまかすべし」

…「自然」とは、自然の「経過」のことであり、その経過の中でおのずと自然治癒力あるいは自己回復力が有効に働くというのである。

…とはいえ、益軒は何もしないでいいというのではない。「人のいのちは我にあり、天にあらず」と言う。人のいのちの長短はもともと定まったものではない。その人の養生次第、生き方次第であると説くことも忘れない。

…江戸の人たちには、病は「その時節にてなければ」治らないという確固とした信念があった。病いはどんなにあせっても治るべき「時節」が来なければ治らない。「治癒力としての時間」ということを信じていた。

 一昔前はよく、病気には「峠」というものがあるということを言っていた。

(金井)

私が子どものころ、風邪をひいて寝ていた時、熱が出、汗をたくさんかくと、祖母は「これで峠が過ぎた!」と。

それは、今から思うと「経過を見守ってくれていた」というように感じ、思うことができます。

 大変な時、苦しい時も「頑張りなさい」ではなく、「今が峠だよ」と言って、暗に「通り過ぎれば楽になるよ」という観守り方(愉気法)がありました。日本の野山という「自然観」を通して、人間の「じねん」を教えていたのです。

野口晴哉は講義でよく、「闘病」という言葉が大正時代に作られたと語っていましたが、それ以前の日本には、病気と闘うという考え方は無かったのです(闘病という言葉は西洋思想の影響)。

 

「その自然にまかすべし」

…自分あるいは家族が病気になった場合、医者や薬にあわててたよるよりも、まず病態の時間的変化をしっかり観察し、その病態に合わせて取るべき注意たとえば食養生をしっかりと守り、病勢の転帰である時間軸としての「峠」を見極め、快方への経過をひたすら待ったのである。

 この「待つ」ということについて、益軒は『初学訓』巻之五で次のように語っている。

 

 万事を行ふに待(まつ)という字を用ゆべし。待とは急ならざる事はいそがずして心しづかに思案し、詳(つまびらか)に行ふを云(いう)。かくの如くすれば過(あやまち)すくなし。事を行ふにいそがしく急なれば、かならずあやまりあり。

 

「待つ」ということは、相手を信じることである(待たないことは信じないこと)。病気の場合、からだの自然を信じることである。こうした病気における自然の経過を信頼するという考え方について、整体法の創始者として知られる野口晴哉は『風邪の効用』で次のように語っている。

  

 最近の病気に対する考え方は、病気の怖いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きていく上での体全体の動き、或いはからだの自然というものを無視している。……早く治すというのが良いのではない。遅く治るというのが良いのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい(『風邪の効用』)。

 

  彼にとって「風邪というものは、治療するものではなく経過するもの」であり、「風邪を上手に経過させることができれば、まず難病を治せると言っていい」のである(液体的・時間的・全体的な捉え方)。

 病気を人のからだの「経過」と考えるここには、病気を敵対視する近代西洋医学の思想はない。そして、「体の全体の動きと時機をつかまえる」ことが大切であるという野口晴哉の言葉には、益軒やヒポクラテスの言葉と響き合うものがある。

 

 

 師野口晴哉は整体指導者を目指す者に対して、この「待つ」ということの大切さを、繰り返し説いていました。

 

(補足)

 野口晴哉先生は、「経過を待つ」ことについて次のように述べています(『月刊全生』)。

 

・・・心を静かにしてぽかんとしているだけでは駄目であって、もう一つ体の中の要求をみな感じ取ってそれを運動に表現していく、それが放っておく状態でなくてはならない。

・・・我関せずという無関心は、放っておくという意味にはならない。

・・・要求をみな運動として表現して、心の中のいろいろなものを、乱れを残さないままに静けさを保っておく、天心を保っておく。

そういう心身の状態にもっていって、そしていろいろな変動に処していく、経過するのを待っている。

何もしないで待っているのとそれは違うのであります。

・・・整体の示すところは、いろいろな病気の中で尚、自然を保つということ、静けさを保つということであります。

どんな瞬間にも息を乱さないで、静かに要求を生かすということが理想であります。死ぬまでそうしたい。 

 

人間の自然と病症ー気の思想と目的論的生命観 11

「おのづから癒る」を待つという「受動性」と、持てる力の行使という「能動性」

  今回から、以前にも本ブログでからだ言葉についての内容で登場した、立川昭二氏の『養生訓に学ぶ』を使った内容に入ります。これも下巻第七章に収録されています。

 次は、2009年頃、会報作りの際に書かれた「養生」について述べている金井先生の文章です。

(金井)

 野口晴哉先生が亡くなられる前「これからは気の時代に入ります」と言われ、以後30年余を経過しました。そして、11年前の満50歳になった折(一九九八年二月)、「気・自然健康保持会」と名乗り、私として社会的に立ち上がるようになりました。

 翌年にはホームページを立ち上げ、2004年には念願の初出版となり、これらを通じてある程度社会的認知が進んだこともありますが、ここ十年程は、とみに私のまわりが変わってきていることを痛感しています。

 それは「野口整体が求められている」、「私としてできるだけのことをしなければならない、したい」という思いなのです。

 私がこれまで、野口整体を伝える困難さを感じてきた二つの面があります。

 一つはプロを目指す人に対して、もう一つは一般の人に対するものです。しかし実は、すべての人に当てはまる問題として「養生」というものの衰退、また喪失が原因としてあったのです。

 明治になり、江戸時代までの養生論から近代医学による衛生論に変わったのですが、近代医療の現状は一般の人々の需要を満たすものではありませんでした。

 日本における近代化は日本人から「身」というものを奪い、それを精神と身体、いや私の言葉では精神と肉体に分離させたのです。

 

 今回から取り上げる『養生訓に学ぶ』は、病症観、生命観についてです。近代化以前、日本人はどのような病症観、生命観に基づき生きていたかを学んでいきましょう。

 

(金井)

江戸時代までの伝統医療と、近代医学の違いは「病症観」に顕著に表れています。そして、野口整体の思想を理解する上でも「病症をどう観るか」は核心となる主題です。

①内なる自然への信頼と自然治癒力に対する信念

医聖ヒポクラテスと共通する益軒の思想

 立川昭二氏は江戸時代の気の医学、貝原益軒の『養生訓』の病症観について次のように述べています(『養生訓に学ぶ』)。

(註)貝原益軒(1630年~1714「年)の『養生訓』江戸時代の本草学(薬学)者、儒学者福岡藩士。1713年世に出た『養生訓』は、益軒が八十四歳の時(死の前年)「養生」について纏めた著作で、江戸時代に出版された数ある本の中でおそらくロングセラー第一位の書物。

 

「おのづから癒る」

『養生訓』の根底を流れる思想として、最後にあげなければならないのは自然治癒力への信頼ということである。

…薬をのまずして、おのずからいゆる病多し。是をしらで、みだりに薬を用(もちい)て、薬にあてられて病をまし、食をさまたげ、久しくいゑずして、死に至るも亦(また)多し。薬を用る事つつしむべし。

   益軒は薬学の道を究めていただけに、薬のことを説くにあたって一番留意したことは、「みだりに薬を用いるな」ということであった。…その真意は「保養をよく慎み、薬を用ひずして、病のおのづから癒るを待つべし」というところにあった。

…この「おのづから癒る」ということばにみられるのは、からだの内なる自然への信頼、自然治癒力あるいは自己回復力に対する確固とした信念である。自分のからだは自分で守り、病気も自然に癒す、という確信である。

 ここには、私たち現代人のように自分の健康や病気を安易に医薬や病院に依存するという考えはない。過剰な医療をさけ、急がず時を待つ、という考えである。

 今日では自然治癒力というと医療の放棄と受け取られがちであるが、そうではなく、人間の体にもともとそなわっている癒える自然の力を活かすということである。

 この自然はもとより景観としての自然ではない。また英語でいうネイチャー(nature)(人工物でないもの)でもない。あえていえばギリシア語でいうヒュシス(physis)の自然にあたる。

 ギリシアといえば、医学の父といわれる古代ギリシアヒポクラテス(註)は『流行病』(六‐五)で、「病気は自然が癒してくれる。自然は、癒すてだてを自力でみつける」と言っている。

…からだの自然を自律的な動きとしてとらえるヒポクラテスは、自然を他者によりかかり、要求するものとは考えない。その自然の経過に応じてその人の内なるいきおいが発揮できるように、そのいきおいと技術とで対処していくことが、自然にそう医療であり、からだの中の自然の働きを回復することが健康法そして医療であった。

 こうした考えは、病いは「おのづから癒る」という益軒の考えと根本に重なりあうのである。

 (註)ヒポクラテス(紀元前460年~紀元前377年)

古代ギリシアの医者。身体にはもともと健康になろうとするPhysis(自然の力)があり、医者はそれを助けるのが責務であるとした。病気は自然の経過と考え、医術はこれを助ける技術であると考え、人の身体に備わる自然の力と身体の環境との関わりを重要視した。

 

 

身心一如の東洋宗教と目的論的生命観ー気の思想と目的論的生命観 10

気で観る身体

  以下の文章は、2010年頃書かれた、整体指導で観察する身体についての金井先生の文章です(現在は推敲・編集が進み著書用原稿に収録)。これは確か、友永ヨーガ学院での講座のために書かれたもので会ったと思います。

先生はこの中で、「肉体」と「身体」について次のように述べています。

 

 野口整体の「整体指導」では、相手の「身体」を、気を集めて観察します。この時、その「身体」に心や感情を観察することができます。しかし、「気」を集めることができないと、それはよく観ることができません。ですから、「科学」とはなり得ません。

しかし、科学的に進んだ医学における医療機器MRIにおいては病理学的な変化はよく観察できるのですが、〈こころ〉は写りません。

 このことを西洋医学では「肉体」を観、野口整体では「身体」を観ると定義することができます。

 そのようなことを感じていた矢先、不思議と、昨年の初めには講演や講義が続きました。私は普段、道場の外で活動することはほとんどありませんが、そこで、野口整体に触れたことのない人々に直に接したことで、思いを新たに「身体」というテーマと、その、本の内容や構成を一から考え直すことができたのです。そして、それはさらに〈気の「身体」論〉として、言葉が進んだのです。

 それは、「日本の身体文化」という言葉を通じて、西洋人が捉えている体と日本人の捉えている体、その違いを「肉体」と「身体」という言葉で定義したことから始まりました。身体、と書いて、「からだ」と読むのが普通となっていますが、ここでは敢えて「しんたい」と読みます。

 ここで言う『気の「身体」論』とは、高度に科学的に発達した西洋医学一辺倒の現状に対して、心と一体としての体、「身体=気の体」と言うべきものを提唱していこうとするものです。

これは、野口整体が生まれる前から、日本人は「からだことば」として、自分や他の人を「身心」を一体として捉えてきました。それは「気の体」として受け継がれてきていた東洋的身体観の流れを汲むものなのです。

 

 先生はその後、この中で言う「身体」を〔身体〕と書くようになり、『「気」の身心一元論』という著書の主題にも発展したのです。

 金井先生は下巻で次のように述べています。

 (金井)

 私は初出版直後(2004年6月24日)に著した、当会会報のための文章(「日本の身体文化を取り戻す」Ⅱ)の中で、斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス)から引用し、さらに同氏の『自然体のつくり方』(太郎次郎社)に掲載されている写真の「戦前の日本人の体」について取り上げ、「型」や中心感覚、また「気」に触れ、次のように述べました。 

このような短い間に、日本人の体がこんなにも変わってきた、ということは、私自身の三十数年に及ぶ整体指導の中でも痛感するものがあります。

生活の仕方や価値観が変われば体が変わるということであり、体の変化はそのまま日本人の心が、戦前とは一変したことを物語っております。良く変わった部分もあるのでしょうが、とりわけ目立つことは、逞(たくま)しさや、野性美が失われた現在、自分の裡にある自然な勘のはたらきが極めて粗末なものになっています。

日本の「腰・肚」という身体文化はそのまま精神の文化であり、身体智と頭脳知が一体のものだったのです。

私が整体指導の中でやっていることは、野口整体の専売特許だけではなく、日本人が連綿と受け継いできた「脚(足)・腰・肚の文化」でもあり、長い間の民族の知恵なのです。

身体文化の根本が脆弱(ぜいじゃく)になった今日では、礎(いしずえ)より語り直さねばと思います。

 これは、『病むことは力』の執筆中(2002年3月~04年5月)に取り組み始めた「日本の身体文化」の意味を心の内で捉え、右の文章を書いていたわけです。

 禅による思考は「肚」で為されるものです。このことから、「腰・肚」文化を身につけていたかつての日本人は「禅に生きていた」と言って過言ではないのです。

 敗戦後、わずか七十年(2015年現在)の「日本人の身体」の大きな変化の歴史を若い人々に知って頂きたいと思います。

 近年の研究、特に哲学者の湯浅泰雄氏の著作を通じて、「目的論」という言葉を得ましたが、科学的に高度に発展した、現代社会の問題点を解決する上で、科学の機械論的生命観により失われた「生命に対する信頼」の復活こそが肝要と考え、本書を著すに至りました。

「身心一如」であるところの〔身体〕を捉えると目的論的宇宙観が復活してくるのです。