野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三3①

昔の日本では、動作や坐法など、体の状態を保持する教育を「躾」として大切にしていました。これは「気」を確かに持ち、心を静め、安定させることを目的としています。

 今は、行動・衝動を抑制することを言葉で教え、体に教えるのは「体罰」というのが一般的になって来ていますが、昔は体を通して心のあるべき状態を教えていたのです。

 こういうことを金井先生から整体を通じて学んだのですが、それ以前は私自身にも、体というのは何か支配したり、管理したりするべき対象という潜在的な思い込みがあり、自分の体に対する信頼は薄かったと思います。

 このように私たちの体に対するまなざしは、昔の日本人とははっきり違っているのです。こうしたことを踏まえ、今回の内容を読んでみてください。

 3 東洋の身心論による「意識」とは― 主観的・定性的・全体的

①心身一如の人間観

「道」は、日本的宗教意識(霊性)を養うための哲学的な原理で、日本人を日本人たらしめてきた倫理や道徳、そして「行法」(身体行=修行・修養・養生)の体系を意味するものです。

 中国思想の原典『易経』に始まる「道」は、日本に伝わった後、日本人のあり方(生きる道(みち))として独自に発達しました。また同じく中国から、13世紀(鎌倉時代)に伝わり、日本的に発展した「禅」、これらは、日本文化全体に大きな影響を与えてきました。

 敗戦までの日本には、このような「道」― 人格を磨き生き方を高めるための道筋 ― があったために、意識と無意識の統合、また自と他の一体性、直観力(物事の本質を捉える能力)を育てる教育に優れていました。

 直観力は身体、心理学的な表現では無意識によるもので、修養・養生という江戸時代までの身体性の教育が、これを養っていたのです。このような教育を支えていたのが行儀・礼儀作法でした。

 石川氏は東洋における「心と体」について、次のように述べています。(『西と東の生命観』) 

心身一如

 東洋の人間観の特徴は、心身一如という表現に集約される。すなわち、心と身体を一体不可分なものとしてとらえていこうとする態度である。このような態度は、東洋的な連続的自然観と共通の思想的基盤をもっているといえよう。

デカルトに代表される心身二元論的人間観が、非連続的自然観と類似の性格をもっている点と対比させるならば、東洋と西洋がもっている思想的枠組みの差異が、ここにもはっきりと表れている。

 西洋文化にみられる分離思想(註)は、ものごとを分析的に区別してとらえようとする科学的な思考にとっては、大変に都合の良い発想法である。近代自然科学がこれまで発達してきたのは、この分離思想に負うところが大きい。特に、自然から心を排除するという考え方を基礎として、近代科学は大きな発展をとげてきた。

 しかし、現代科学(現代物理学の意ではない)が、生物、特に人間を研究するにあたって、心と身体を分離する二元論的自然観を無条件に適用してよいかどうかは慎重に検討しなければならない。

現代科学は西洋とは異なる視点をもっている東洋的心身一体論から、何かを学びとる余地を残していないのであろうか。

 (註)分離思想 自然の中で人間を特異な存在として分離する考え方。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三2

 今回は野口整体と石川光男氏が説く「伝統的日本文化の随所にみられる特質」との共通点で、『日本の弓術』(『弓と禅』)で有名なオイゲン・ヘリゲルが取り上げられています。

 共通点を簡単に言ってしまえば、学ぶ時の心の態度と、ある心の境地に至ることを目標として身体を鍛錬することにあり、それはどういうことなのかが主題となっています。できましたら、当ブログ内にある「大人の天心」

soryu.hateblo.jp

という「鍛錬」について述べた野口先生の文章も併せ読んでみてください。それでは今回の内容に入ります。

2 日本文化の特質「じねん」「道」を相対的に捉え直す―「道」の喪失と日本の戦後世代の問題

  日本の近代化とは、西欧に定着している合理主義と民主主義の背景を十分に検討せずに、欧米の社会的な仕組みと方法論をそのまま輸入したものです。

石川氏は、敗戦によって失われた「日本の心」について述べ、明治維新以来今日まで近代化が進む中、「儒教的伝統の崩壊」と西洋的「普遍性」に飲み込まれてきた日本の近・現代史を振り返り、日本文明を相対的に捉え直すことを提言し、次のように述べています。(『複雑系思考でよみがえる日本文明』) 

修行によって体得する「じねん」

 精神と身体の統合の体得は「修行」であって「学習」ではない。現代の日本社会(禅道場などは除く)に学習はあっても修行はみられなくなった。精神と身体を統合する修行において重視される哲理が「じねん」である。

…武道や書道などの「道」の極意は「じねん」に求められてきた。「じねん」は、西洋文化の伝統の中には見られない概念で、合理主義的な理性的論理では理解することができない。「じねん」は言語を通して精神的機能だけで理解することは不可能で、心と身体を一体とする統合的な修行によって体得する以外に道はない。

日本の「道」が合理主義的な近代西洋文明の伝統と全く相いれないことをよく示しているのが、ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルの書いた『弓と禅』である。

ヘリゲルは、日本の弓術は西洋の射撃と同様に、巧みに矢を的に当てることを目的としたスポーツと予測して入門したが、稽古の第一日から全く予想に反した指導を受けて困惑する。

論理的な思考を得意とするドイツ人哲学者の頭を混乱させたのは、次の諸点である。

一 筋肉の力を使わないで弓を引く。

二 呼吸法による精神の集中を絶対的な要件とする。

三 矢を放とうとする意志を持たずに、矢が自然に離れるのをまつ。

四 的を注視せずに的を射る。

矢を「放つ」のではなく、矢が「放れる」のをまつ。それが「じねん」の放れである。しかし、ぼんやり待っていても矢は放れない。

精神的集中、心身の緊張と弛緩の微妙なバランスの中で、柿の実が熟して自然に木から落ちるように矢が「放れ」、しかも意図的に「放つ」よりも遥かに鋭く矢がとび出さなければならない。それが理想の「射」とされる。

 ヘリゲルが弓道を修行したのは大正の末期から昭和の初期にかけての六年間、師は阿波研造である。

ヘリゲルが入門した時期は、阿波研造が的中主義の合理的な弓道から、禅的な要素を強く志向した精神的な弓道に転向した時期にあたっている。阿波研造が精神的な要素を特に重視してヘリゲルを指導したのは事実であるが、ヘリゲルが困惑した前記の四項目は、日本の弓道全般に共通する一般的な特質であって、決して阿波研造の独断的な特質ではない。これらの特質は、「じねん」を極意とみなす日本の古武道に共通する要素を内包している。

「じねん」の概念は、合理主義的な論理からは推察の手がかりすらつかめない。非連続的世界観を土台とし、単純系をモデルとした合理主義的論理から「道」の極意が理解できないのは当然の帰結であるが、複雑系の視点からみれば推察の手がかりはつかめる。

単純系(閉鎖系)はひとりでに秩序を造ることはできないが、複雑系は自己組織化という機能によって自律的に協調的な秩序を創り出すことができる。武道における「おのずからなるあり方」とは、心身の潜在的な秩序形成機能が十分に引き出された状態と解釈することができる。

武道の極意としての「じねん」は、人間の意図する技の目的に添ってこの機能が十二分に発揮されるように心身が統御されている状態であるといってもよい。

 どのような目的に添って心身が統御されるかは、人間の意志が決定する。そのような意味では主体性がある。しかし、いかにして潜在的な機能が発揮されるかは人間が決めることができず、自然の仕組みにゆだねなければならない。そのような意味では人間の側に主体性はない。

「ゆだねる」という言葉は、主体性のない消極的な言葉のように解釈される場合が多いが、武道の極意における「じねん」は、毅然とした主体性と、心身の機能を自然の仕組みにまかせきった全託の状態とが同居している。

心技体を自然の仕組みに従うように統御することに全力を尽くし、結果は自然にゆだねるという生き方は、伝統的日本文化の随所にみられる特質である。

  野口整体では「全生」という基本理念があります。それは「生命を全うする」、「全力を発揮して生きる」、「瞬間を全力で生きる」という意です。これが右記の「人間の意志」、主体性です。

「全生」するためには「体を整える」ことからですが、それには「心身の機能を自然の仕組みにまかせきった全託」の心境が必要(活元運動また個人指導時)であり、個々人の生活においては、野口整体の「健康生活の原理」、「病症経過(『風邪の効用』の思想)の理解」、「自身の体癖を理解する」などを通じて、やはり「体を自然の仕組みに従うように統御する」という「毅然とした主体性」が求められます。

 このように野口整体は、石川氏が説く「伝統的日本文化の随所にみられる特質」と同様です。

(ヘリゲルの弓道修行の物語については、主に『日本の弓術』『新訳 弓と禅』を使い、第三部第一章で詳述)

野口整体と科学 第二部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三1

三 近代科学と東洋宗教(石川学)― 自然を解明し、支配する近代科学と

人間の自然を保つ「道」としての野口整体

 今回から三に入ります。日本では、伝統的なお稽古事を「書道」「茶道」のように「道」をつけて呼ぶ習慣がありますが、「道」とはどういう意味なのかを知っている人は少なくなってきました。それは「修行」の意味が分からない、ということと同様で、日本舞踊なり武術なりを「やること(習う事)」=「道」ではないというところがポイントです。

 野口整体も、活元運動をしたり、愉気などの方法を習ったりすることだと思われていますが、金井先生はそう思っている人たちに「野口整体は道である」と言っていました。それがどういう意味なのか、ということが三の主題となっています。

1 野口整体とは人間の自然(じねん)を保つこと― 道のための「祓(はらえ=お祓い)」を行なう整体指導

 本章一 2で、本書のタイトルの副題『近代科学と東洋宗教』について述べましたが、これは「科学の知としての西洋医学」に対する「禅の智としての野口整体」という対比でもあります。

 そしてこれは、科学一辺倒になった現代人に対して、野口整体を理解し「自分の健康は自分で保つ」上で、欠かすことのできない「修養・養生」を取り戻すことの必要性を訴えたいためでした。

日本には東洋宗教文化としての「道」(註)から生まれた心と体の使い方(生き方)である「修養・養生」がありました。

(註) 中国哲学上の用語。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家老荘思想を奉じる者)や儒家によって説かれた。日本に伝わった後、独自に発達した。

 江戸時代の学者、貝原益軒は『養生訓』で、健康であるため、天地の法則(道)に従って生きるという「人(ひと)の道(みち)」を説いた。近代医学がなかった時代、修養と同様、養生は「健全に生きる」という積極的な意味として用いられていた。 

 私が「道」を説くのは、野口整体で言う「整体(体が整っている)」とは、「人間の自然(じねん)を保つ」ためのあり方だからです(じねんとは「自ずからなるあり方」)。

 明治以来の近代化の流れの中で、失われつつあった日本文化(東洋宗教文化)ですが、敗戦(1945年)後の衰退は著しいものでした。

 今こそ、近代科学文明に対して東洋宗教文化を取り戻す時です。伝統的な日本人の、自然と共生し「自然(じねん)を理解する」生き方を伝えてきた東洋宗教を改めて知り、「自然を支配する」という性格の近代科学を捉え直し、これを、どのように生活に位置づけていくかを考える(=科学を相対化し、伝統文化を思想的に理解する)ものにしたいというのが本書の動機の主なものでした。

 師野口晴哉が「自然」の語を用いる時、それは、現代の外界の自然をのみ意味するのでなく、日本語本来の自然の意である「じねん(あるがままの姿)」を意味します。

 師は「自然・秩序・健康・美」について、次のように表現しています(『偶感集』全生社)。 

「それ以前」

天衣無縫は美ではない。そこに自然の秩序が現われることによって美を感じる。

美は秩序であって、抛ってあるところにあるのではない。

一片の花にも美しさを感じさせる秩序がある。

一つかみの雪にも自然の秩序が整然とある。その自然の秩序を人体上に現わしているものを健康と私らは感ずる。

 

自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。

しかし投げ遣りにして抛っておくことは自然ではない。

自然は整然として動いている。それがそのまま現われるように生き、動くことが自然なのである。

  師野口晴哉が設立した整体協会の、本部(二子玉川)の玄関には、「整体道場」の看板がありました。そこで行なわれるのが「整体指導」と「活元運動指導」です。

このように野口整体では、「道場、指導」という言葉が用いられます(一般の“整体”は「○○院、治療」という言葉が使われる)。

この「道(どう)」、また「導」について考えてみたいと思います。

「導」という漢字を調べてみますと、「道(みち)を、修祓(しゅうばつ)(神道で祓(はらえ)(お祓い)を行なうこと)しながら進むことを『導』といい、修祓したところを『道(みち)』という。(白川静『字統』平凡社より)」と表されています。

  師が大切にした心に「無心・天心」があります。師は、「天心」を「大空がカラッと晴れて澄みきったような心」と表現しており、まさに「天の心」とひとつとなることを意味するこの語が、野口整体の全生思想を象徴しています(天心という語は、老荘哲学・道家思想に由来している。無心は禅語)。

 このためにある(天心に導く)整体指導とは、まさに「修祓(しゅうばつ)」なのです(神道的な儀式としての整体指導)。

 活元運動の基となった霊動法は、「禊祓(みそぎはらえ)(神道における身心を清める行為)」(そして鎮魂(ちんこん)・魂振(たまふり))として古神道に伝えられていたもので、野口整体の指導は、身体に具わるこのはたらきを拠り所として行われます。

 そして修祓すべきは「雑念」なのです。「天心」は、中村天風師の「積極心(晴れてよし、曇りてもよし富士の山、もとの姿は変わらざりけり)」と同質であり、また、ユングの「コンプレックス(自我の主体性を奪うもの)と自己実現」の考え方でもあります。

「無心・天心」は、道のエネルギー「気」を受け入れるための器としての身体のあり方なのです(気を受容することで「良い空想ができる身心・整体」となる)。

 

野口整体と科学 第二部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観二4

4 自然治癒力自己実現に不可欠な開放系の身心― 気と開放系

  近年、私の指導を求める人に、感情が滞り「心」が開かれていない(=自分の思いに囚われて、それから離れられない)人を見かけます。これは、言い換えると、現代にうつ的な人が増えているということです。

 こういう人は対話する上で、表面的な意識(現在意識)では問題がないのですが、背骨を観てみますと、とくに「動きがない」と感じます。私には、このようになった身体には心(潜在意識)の「動き」が感じられず、「流れていない」と観えるのです(=不安や怒りで固まっている)。

 このような人は、みな「個(孤)」という方向に入り込んでいて、「閉鎖系」の世界にいるわけです(人間関係の問題(不安・不信など))。

 人は「つながり」を持てない、また「否定的」な心のはたらきで、自分だけの世界に入ってしまうのです(その人にとって意味はあるが…)。

 こうして、閉ざされた「心身」には「気」が流入しなくなり、「気」が流れない身体と化すのです(=秩序回復不全の閉鎖系状態)。

私は個人指導の場で、このような自分の世界に閉じこもっている人を「閉鎖系」と呼んでいます。

「他者との関係性」についての問題は日常的に起こるものですが、「閉鎖系」となるのは、心の中で、自分から「人とのつながり」を切ることで、なるのです(ある特定の人とのつながりであっても、完全な閉鎖系となると「全てと切れた」と感じる)。

臨床心理を通じて、こういうことに、「気づく」か「気づかない」かが、その人が「良くなる」、「良くならない」の分かれ目になります。「気の通り」「気の感応」の良い人は、自ら新しい秩序形成をどしどし進めて行くことができるのです。

開放系という概念は、心の広がりであり、より多くの人の心(潜在意識)とつながる能力であり、これによって「自己実現」が進むことを意味しています。

 野口整体整体操法という技術も活元運動も「気」を中心としたものです。外界からの「気」を良く取り入れられることは自然治癒力のみならず、個人の持つ潜在能力が発現し、その人の人生を活性化するのです(仏像の光背・後光は、気・オーラを表現している)。

 本シリーズで説く「修養・養生」の意味は、弾力ある身心を保つことであり、その目的は、開放系としての自身のあり方を高めていくことです。

ユング心理学における「自己実現(個性化の過程)」とは、外的世界との交渉の主体である自我は、自己との心的エネルギーを介しての力動(註)的な運動で変容・成長し(自我が自己との相互作用で成長し)、理想的な「完全な人間」を目指すというものです。

(註)力動 正しくは精神力動といい、心の営みが生み出す力と力が織りなしていく動き(葛藤・否認など)のこと。

 自己が実現するには、他者との気のつながり(=開放系)によってのみ可能なのです。

 私は、多くの人が野口整体愉気法・活元相互運動 ― を身につけることで、「相手を活かし、自身が活かされる」というつながり合ったシステム・開放系となっていくことを願っています。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観二3

 申し訳ありません。前回、二3を飛ばして4を掲載してしまいました。

更新の上、3を公開させていただきます。(近藤)

3 自然治癒力は開放系の機能に由来する― 東洋文化の特質は主観的・経験的

  東洋の「連続的自然観」について、石川氏は次のように述べています(『西と東の生命観』)。 

文化の相補性

…東洋では近代科学は発達しなかったが、連続的自然観を土台として、西洋とは異質の文化が発達した。インドにはヨガや、中国医学の源流となったアーユルヴェーダがあり、中国には気功や中国医学があり、日本には神道の文化的伝統(自然崇拝)がある。

これらの伝統文化は、いずれも人間の生命を心と体と環境がつながり合ったシステムとして認識している。人間の生命に対するこのような認識の仕方は、近代科学が土台としている閉鎖系モデルとは本質的に異なっており、現代の用語で開放系モデルと呼ばれる自然観に近い。

…生物は閉鎖系モデルで記述するよりは、開放系モデルで記述する方が、はるかに現実に則している。なぜならば、動物の個体は呼吸や水・食物によって絶えず外界とつながっており、細胞もまた新陳代謝という形で外界とつながっている開放系とみなすことができるからである。

しかも、自然界がひとりでに秩序を形成するのは開放系のみで、閉鎖系では自発的な秩序形成が起こらないことが知られている。生物の秩序形成は基本的には開放系の機能に由来するといわなければならない。

したがって、温暖な気候風土の中で形成された開放系モデル的な生命観は、近代科学の生命観よりは総体的には自然の姿に近い。

しかし、この生命観では必然的に心という主観的要素を含むために、近代科学のように客観性を重視する学問は発達しにくかったのである。しかし、心身の統御に関する種々の技法(その一つが野口整体)や文化的技法は西洋文化よりもはるかに奥深い内容をもっている。

このような意味で東洋文化の特質は主観的・経験的であり、近代科学の客観的な特質と対照的である。

近代西洋科学を「客観主義的経験科学」と呼ぶならば、ヨガや気功、中国医学は「主観主義的経験科学」とも呼ぶべき特質を内包しており、西洋科学と相補的な役割をはたす文化として再評価される時代にさしかかっている。

   石川氏は、東洋の連続的自然観においては、今日、健康法と呼ばれるヨガや気功、あるいは医術の発達があったと述べています。そして、氏は野口整体の内容について多くご存じではありませんが、ヨガや気功など東洋の身体智が、科学に相補的な役割をする「主観主義的経験科学」と表現されているのは、整体指導者の私には「我が意を得たり」というものです。

 そして「自然界がひとりでに秩序を形成するのは開放系のみ」と述べていますが、自然治癒力、また「疲労回復力」は、「生物の秩序形成」機能であり、これは「開放系の機能に由来する」と表現することができます。

 生物、ここではとりわけ人間が、開放系として機能することを考えてみます。「開放系として機能する」とは、秩序形成能力が高いということで、第一には、日々の身心の疲労が睡眠によって回復することを指します。それには、何より「脱力」が肝要なのです。身体の脱力というものは、実は、これは心に、それは感情のはたらきに大きく関わるのです。

 師野口晴哉は、眠るときの心得として、中村天風師と同じく「憎しみや悩みを眠りの中に持ち込んではいけない」と説き、とりわけ脱力を薦めています。

「身心」の弾力が良い人は、負の感情(怒りや不安など)が起きても、その思い(想念)がじきに離れるものです。

 その思いにしばらくは支配されていても、体が弛み心が動くと、負の想念がすっと自分から離れる(=無心となる)のです(天風哲学は、この意義を明確に示している)。

 そのような人は、個人指導で、始め「偏り疲労」があっても、情動について私に話した後、良い活元運動が出ると、途中「先程話したことが、今、どうでも良くなりました」などと言うことがあります。この時、この人は十分に「開放系」へと変化しているのです。

 それは、先程までの硬張りが弛み、身体に気が通り明るくなるのです(時に「憑(つ)き物が落ちる」と表現できる)。「身心」が、このように弾力を取り戻すことが「個人指導」の目的です。

 そのため私の個人指導では、相手の身心が「開放系」であるかどうかが重要なのです。

 このように、人を、環境との「関係性」(会社や家庭などでの人間関係)において捉え、その人の「心のはたらき」を観ています(=「生活している人間」として観る)。

 しかし、このような視点が全くない身体の見方は「閉鎖系」として、換言すると「機械論」的に見ていることになります。

 開放系という概念は、「気」を中心とする野口整体の人間観の新しい説明として特に役立つものと思います。

 また氏は、同著の次の項「閉鎖系モデルと開放系モデル」で、閉鎖系から「複雑系」へと発展した現代物理学について、

自然をつながり合ったシステムとして認識する開放系モデルは、理論的取り扱いが複雑となる。そのため、19世紀から20世紀前半にかけての近代科学の発達の中ではあまり注目されなかった。しかし、20世紀の後半になると、開放系モデルに基づいた自然の研究がいろいろな形で進展するようになってきた。

と述べています。

 

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観二2②

 ②は野口晴哉の「受療の道」が中心です。これは昭和6年に書かれたもので、受療を受ける側の心構えについての内容です。

 野口先生がこの中で批判している人には「信を置いていない」などというつもりはなく、おそらく「客観的に」観察したり、他と比較したりして考えているだけだと思っているのではないでしょうか。近代人というのはそれが習い性になっていて、それが正しく知的な態度だと思っているのです。

 自分のことを考え、過去の自分を超えていく上で、そういう無意識的な構えにどんな弊害があるか?これは金井先生が河合隼雄氏を通じて考えた、現代人に与えた科学の影響という問題につながります。

 それでは今回の内容に入ります。 

2 関係性(信)を基礎におく野口整体の整体指導― 自然治癒力(自力)は他力(関係性)によって啓かれる②

②自力と他力の相互作用のために必要なこと

次は師野口晴哉が、治療家時代に書かれた文章を紹介したいと思います。この内容は、近代化されつつある時代、科学的な西洋医療に影響された人々の固定観念によって、師が苦労されたことが、私にはよく読みとれるものです(『野口晴哉著作全集第二巻』初出『語録』昭和六年 無薬時代社)。 

受療の道

病弱から健康になることは、即ち自己を新たにすることである。しかし、自力で新たになるのではなく、他力で新たになるのである。他力で自己を新たにするには、何よりも先に自分を他力の中に没却しなければならぬ。丁度、車か船にでも乗つた気持でゐることが必要で、なまじな知識や小才覚は禁物である。

他力で自己を新たにする秘訣は、他力のうちに自己を没却することである。藤なら竹薮の中でも真直ぐにはなるまいが、蓬なら麻に交れば真直ぐになる(註)。他力本願の要は之に尽きる。

けれども世の中には、どうしても自己を没却し得ぬ人がある。

斯様な人は、自ら新しい自己を造らんと努力せねばならぬ人で、受療の資格がない。

 

他力によつて、自己を新たにしようとするなら、昨日の自己は捨てて仕舞はねばならない。他力によつて新しい自己を造らうと思ひながら、自己は矢張り昨日の自己同様で、思想、行動、態度、習慣を保存し、内々自己の見識を立てむと思ふならば、それは甚だしい矛盾であつて、何等の効益もないのみならず、却つて相互に無益の煩労を起す基となるばかりである。

…昨日までの考へが誤つてゐたればこそ、昨日まで病弱を持続してきたのではないか。然らば昨日までの自分を捨て、一切すべてを新たにして、自分を他力のうちに没却しなければ、治療によつて健康にはなれぬ。

しかし、他力に頼つて自己を新たにしようとするにも、信といふものは自己に由つて在するのであるから、即ち他力によるうちに、自己の働き(自力)がある。

諸君にもしも生命がないとしたなら、私が如何に努力したところで、治すことはできない。

…他力を頼るうちにも、治る力は自己にあるということを理解しておかねばならぬ。

…他力のうちに自己を没却して他力によつて自己を新たにし、而して自己を他力のうちに見出して自己を確信(自力)し、自己を確信し得たなら、他力から脱して自己による健康生活をつづける心がけがなくてはならない。

他力本願 ―― 治療を受けて健康たらんとする人が、第一に心がくべきは之である。自己を新たにする考へがなければ治療は受けられぬ。昨日までの意識の一切をかなぐり捨てて裸になる。之治療を受けるものの道である。

 (註)麻の中の蓬(よもぎ)

善人と交われば、自然に感化されて善人になることのたとえ。『荀子・勧学』に「蓬、麻中に生ずれば扶けずして直し(ヨモギも真っ直ぐに伸びる麻の中で育てば、手を入れなくても真っ直ぐ伸びる)」とあるのに基づく。

 

「病弱から健康になることは、即ち自己を新たにすることである。…他力で自己を新たにするには、何よりも先に自分を他力の中に没却しなければならぬ。

…他力によって、自己を新たにしようとするなら、昨日の自己は捨てて仕舞わねばならない。他力によって新しい自己を造らうと思ひながら、自己は矢張り昨日の自己同様で、思想、行動、態度、習慣を保存し、…却つて相互に無益の煩労を起す基となるばかりである。」

 この文章は師の治療時代の文章ですから、今では、傍線部は「不整体から整体になる」と言い換えるのが適当です。

「整体」の世界には、その世界観があり、改(新)たな「思想・行動・態度・習慣」によって「整体」となるものです。そして、その世界観が整体を保つのです。

 敗戦後七十年を経た現代、一般的な人々は、東洋宗教を全くと言うほど知らず、その世界観は近代科学に依るものとなっているのです。

 東洋宗教の一つ仏教(註)への入り口は自力門と他力門に大別され、自力は聖道門、他力は易行門(または浄土門)と言います。この二つの門が説く「心」への哲学的理解を進めることで、自力・他力(註)を正しく捉えることができます。

 野口整体での個人指導、また活元運動指導を進める上においては、自力と他力が一つになることが何より肝要です。

(註)日本に伝わった仏教は大乗仏教と呼ばれるもので、自力聖道門(天台宗真言宗禅宗)と他力易行門(浄土宗・浄土真宗)がある。

自力・他力 仏教用語。仏教の究極の目的である悟りを得るために、自己をよしとし、自分自身の素質や能力に頼る修行法を自力という。これに対し、自己を煩悩具足の凡夫とし、清浄真実なものは仏陀の側だけとして、自力を否定し、自分以外の力、阿弥陀仏誓願(全てのものを救済しようとする仏の願い)に帰依する実践を他力という。聖道門・易行門の両者は、大乗仏教の“車の両輪”。

紀元前後にインド北西部で始まった大乗仏教運動とは、出家者の解脱を中心とした、それまでの上座部仏教に対し、俗世間の凡夫でも利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において「仏陀に成ることができる」と宣言したもの。日本人が歴史の中でもっとも「心の拠り所」としてきた宗教は、この大乗仏教だった。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観二2①

 第一章二6では、近代化と近代西洋医学の発達について述べましたが、その中に次のような一文がありました。 

18~19世紀、産業革命が起きた西欧では、都市の労働者などの貧民層を中心とする患者向けの大病院を、国家が建設するようになりました。

成育歴や生活状況が分からない重症患者を大量に診察する必要から、病気そのものを病人から区別された実体として扱う「病気中心主義医学」が始まったのです。

  この中にある、病気だけを対象とする「病気中心主義医学」というのは、今回の内容に出てくる中川米造氏の著書にあった言葉です。こうして「どんな生活状況にある人か」という個人の理解がなされなくとも適用できる、近代科学的な医療が産業革命によって求められるようになり、植民地拡大のため戦争と感染症対策がさらなる西洋近代医学の発展につながっていきました。

 それでは今回の内容に入ります。

 

2 関係性(信)を基礎におく野口整体の整体指導― 自然治癒力(自力)は他力(関係性)によって啓かれる①

①複雑性を理解する整体指導

「医療とは人間を対象とするべきであって、病気を対象とするべきではない」という格言を持つ中川米造氏(註)は、インタビュー記事の中で次のように述べています(鉄門だより1996年)。 

第2回 『医』と『人間・文化』

…最近、複雑系という概念が出てきたが、人間的な成熟というのは、複雑性がわかることであり、要素や部分を知っていたって何にもならない。一つ一つの細胞の専門家が集まったところで、全体の人間はわからない。

人間を理解するためのキーワードというのは、個体性、相互作用、歴史性、意味であり、これらを無視する近代科学は医療の基礎にはなりえない。医療にあたる者も、医療をうける者も人間なのだから、医療の基礎は、病む者と癒す者との間の人間関係に置くべきである。

(註)中川米造(1926年~1997年)

1949年京都大学医学部卒業。医学哲学・医史学者。1980年大阪大学教授となる。1989年滋賀医大教授。1986年日本保健医療行動科学会を結成する。医の倫理を基本に医療社会学、医療人類学、環境医学など幅広い分野で発言した。著作に『医の倫理』など。

 

 師野口晴哉の講義内容は、右文にある「複雑性がわかる」ための潜在意識を啓く教育でした(様々な実例を挙げ、病症における「心の原因」を本人、また他者との関係において説いた)。