野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部第一章 一2 神秘へと至る途を求めていたヘリゲル

 英語で密教のことをEsoteric Buddism(秘教的な仏教)と言いますが、これは仏と人間が一体となることを目指す仏教、という意味です。そういう意味では、密教だけでなく禅もEsoteric Buddismと言うことができるのです。

 実はキリスト教にもEsoteric(エソテリック・神秘主義的な)なキリスト教(神との合一を目指す)というのがあって、ヘリゲルが研究したマイスター・エックハルトもエソテリックなキリスト教を実践した一人です。しかし西洋では、近代以前まで異端とされてきました。

 しかし、ヘリゲルの学生時代頃から第二次世界大戦までというのは、エソテリックなキリスト教に対する関心が非常に強まった時代でもあったのです。

 ちなみにアメリカやヨーロッパでは、今かつてないほどキリスト教を信じていない人の割合が増えているそうですが、これは近代に入ってからずっと続いている傾向です。

 それでは今回の内容に入ります。

2 神秘へと至る途を求めていたヘリゲル

 ヘリゲルは、ハイデルベルク(スイスと接するドイツ最南西部バーデン=ヴュルテンベルク州北西部の都市)大学で当初は神学部に属し、中世のドイツ神秘主義のマイスター・エックハルト(1260年頃生 ドイツ)(註)を研究していました。

エックハルトの思想は次のようなものです。

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」

 このような汎神論的(万物に神が宿っている、またその全体性が神であるとし、神と世界が本質的に同一であるとする)思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなりました。

(註)神秘主義 宗教や哲学において絶対者(神・最高実在・宇宙の根本原理など)を自らのうちで直接体験し、自己との合一を求める立場。エックハルトは、人間は我性から徹底的に脱却し、極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら、創造の以前より存在する魂の火花が働き、 魂の根底に神の子の誕生が起こる(神の子として転生する)とし、「神との合一」を、そして神性の無を説いた。

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば、教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまうからである。

 しかし、彼はこのキリスト教神秘主義に傾倒しながらも、これを完全に理解するには自身に何かが欠けており、それは、どうしても現れて来そうになく、その解決の道を見出し得なかったのです。「神との合一」という、その肝心の部分を実感できず、限界を感じて哲学に転じたのでした。

 彼はその当時のことを、次のように述べています(『新訳 弓と禅』弓と禅 Ⅱ.弓道を学び始めた経緯)。

神秘主義研究から禅への関心

 私は学生時代からすでに、不思議な衝動に駆られて、神秘主義を熱心に研究していた。そのような関心がほとんどない時代の風潮にもかかわらずに。

 しかし、いろいろ努力を尽くしても、私は神秘主義の文献を外から取り組むよりほかなく、神秘主義の原現象と呼ばれていることの周りを回っているだけであることを意識し、あたかも秘密を包んでいる周りの高い壁を越えて入ることができないということを、次第に悟るようになった。

 神秘主義についての膨大な文献においてすら、私が追及しているものを見出せず、次第に失望して、落胆して、真に離脱した者のみが、「離脱」ということが何を意味するかを理解できるのであり、自己自身から完全に解かれて、無になって抜け出た者のみが、「神以上の神」と一つになる準備ができるようになれるのだろうという洞察に達したのであった。

 それゆえ、私は、自らが経験すること、苦しみを味わい尽くすこと〔修行〕以外には、神秘主義に至る途はないこと、この前提が欠けている場合には、神秘主義についてのあらゆる言明は、単なる言葉のあげつらいにすぎないということを悟ったのである。

 しかし、人はいかにして神秘主義者になれるのか。どうしたら単にそう思うだけでなく、離脱という状態に実際になれるのだろうか。偉大な達人〔マイスター〕たちと何世紀も隔たって離れてしまった者にとっても、全く違った諸関係の下で育ってきた現代人にとっても、神秘主義へ至る途がなお存在するのであろうか。

神秘主義的な経験は、人間がどんなに思い願っても、こちらへもたらされえないということではないのか。いかにして、それに手掛かりをつけようか。私は自らが閉ざされた戸の前に立っていることに気づいたが、繰り返し戸を揺さぶることをやめることもできなかった。しかし憧れは残っていた。うんざりしてはいたが、この憧れに対する強い思いはあったのである。

 当時、私講師(教授を目指す研究者。国からではなく、学生から聴講料を貰って講義を行うドイツの大学独特の制度)であったヘリゲルは、日本人留学生の家庭教師をしたり面倒を見たりしていましたが、1921年ハイデルベルク大学に留学した大峡秀英― 鎌倉円覚寺に参禅し、釈宗演の弟子・釈宗括より居士の印可を得ていた ―により、禅仏教の存在を初めて知ることになりました。

「神秘」に至る最後の門の前に立ちながら、その門を開くべき鍵を持っていないと感じていたヘリゲルは、日本ではまさに自己からの離脱を眼目とする修行法の伝統が、現代まで受け継がれていることに驚き、「禅の国」日本に対する憧れを抱いたのです。

 そんな中、東北帝国大学哲学講師の話があり、ヘリゲルは生きた仏教 ―「沈思の実践」と神秘説 ― に触れることを願い、日本からの招聘を喜んで受け入れたのでした。

「神との合一」に至る道は西洋では見出せないと、強く感じていたヘリゲルは、日本への訪問という機会を得、東北の地・仙台にたどり着いたのです。

参考資料 野口整体を生きる

 野口晴哉の孫にあたる方による、生き方としての野口整体についての記事がありますので、ぜひ読んでみてください。今、この時代に整体を生きるとはどういうことかを考えるきっかけになるのではと思います。

hagamag.com

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第三部 第一章 「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体 一1

 今日から第一章に入ります。中心となっているのは、Apple社を創業したスティーブ・ジョブスの愛読書としても有名な、ドイツの哲学者ヘリゲルの著書です。私は、西洋の師弟関係は対話によってなされるということをこの本を通じて知りました。

 そして海外の、それも西洋文化圏の人の方が、禅的なものの観方や世界観を自身が生きる上での糧としている人が多いというのは、日本人として残念なことだと思います。

 それでは今回の内容に入ります。

一「神との合一」へと至る道・日本の禅文化「道」― ドイツ人が伝えた「日本人の精神性」

1 オイゲン・ヘリゲルとその著『日本の弓術』

 1924(大正13)年、ドイツの哲学者(新カント派)オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)は、東北帝国大学の招聘に応じ、哲学講師として来日し、仙台に居住しました。

そして、妻と共に、東北帝国大学弓術部師範であった弓聖・阿波研造(1880~1939年)を師として、弓道修行への「弟子入り」をしたのです。

 滞在した1924年5月から仙台を離れる1929(昭和4)年8月(註)までの間、彼は、日本人と西洋人のものの考え方の違いに突きあたり、また1926(大正15)年春からは、弓道の元にある「禅の精神」の理解に戸惑いながらも、帰国する頃には、師より免許皆伝・五段の免状を受けるまでに至ったのです。

(註)ヘリゲルの日本滞在期間の終わり月が資料によってまちまちであるが、ここでは『日本の弓術』(柴田治三郎訳 岩波書店1982年)の、新版への訳者後記「1929年(昭和4年)8月東北帝大を辞して仙台を離れ、12月帰国する…」に基づく。

 本章三 4で引用する『弓と禅』の訳者・稲富栄次郎氏の回顧録では、昭和4年の七月に帰国と述べている。

 ドイツに帰国後の1936(昭和11)年2月25日、ヘリゲルはその体験を元に、「騎士的な弓術」と題してベルリン独日協会で講演を行いました(彼は「術」に該当するドイツ語を、道の意味で使った)。

 そして同年、その原稿の日本語訳が雑誌『文化』に掲載され、その後、それに弓道修行の通訳をした小町谷操三氏(1893~1979年 東北帝大法学教授)の回想録を付して出版されたのが『日本の弓術』(柴田治三郎訳 岩波書店 1941年初版)です。

 その後1948年には、彼が講演の原稿(「騎士的な弓術」)を書き改めた『弓術における禅』がドイツで出版されました(この年ヘリゲルは、帰国直後から勤めて来たエルランゲン大学を退き隠棲する)。

 日本では、この本がヘリゲルの東北帝大での教え子二人によって翻訳され『弓と禅』(稲富栄次郎・上田武訳 福村出版 1959年初版)が出版されました。

 この英訳本『Zen in the Art of Archery』は、スティーブ・ジョブズ(アップル社共同設立者の一人 1955~2011年 アメリカ)が愛読したことで知られています。

 この本の序言で、ヘリゲルは「弓道と“禅”との間に存在する密接なつながりを明らかにすることが、私の講演の眼目であった。」と述べ、日本の「道」が禅文化であることを強調しています。

 そして、2015年12月には、『日本の弓術』と『弓と禅』を一冊とした『新訳 弓と禅』(魚住孝至 訳・解説 角川書店)が刊行されました。

 本章は、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』と『新訳 弓と禅』(福村出版版『弓と禅』は一部使用)を元に、現代ではその多くが失われた、伝統的な「日本人の精神性(身体性)」を伝えようとするものです(『日本の弓術』の内容は『新訳 弓と禅』にも含まれていますが、これについては岩波文庫版を使い、『新訳 弓と禅』収録の同内容については、訳注(五一頁~五四頁)のみを使用)。

 これらの著作には、西洋人、また論理主義者でなければ、弓道の師とこのようなやりとりをし、また記述することはできない内容が、いかにもドイツ人らしく精密に記されています。しかし、この「論理的な思考と方法論」が、弓道の師の禅の教えによってことごとく否定され、打ち負かされ、ついには、言語と論理の限界を突き抜けていく過程が著されています。

『Zen in the Art of Archery』は、西洋に「禅とは何か」を伝えるものとして浸透していますが、ヘリゲルが著したこの内容は、敗戦後七十年に亘り伝統文化を切り捨て、かつ科学教育のみに育った(=西洋化した)現代の日本人にとっても、きわめて意義あるものと確信し、これを用いて本章を編み、本書(上巻Ⅰ・Ⅱ)内容理解の一助としたいと思います。

第三部 後科学の禅・野口整体  第三部で紹介する三氏と「禅思想」

 今回から第三部に入ります。以前紹介した内容もあるのですが、改めて全文を掲載することにしました。

野口整体は禅である」というのは、私が塾生になるかなり前から金井先生が言っていたことです。しかし「理解できる人はなかなかいない」とも言っていました。禅と言うと、みなあの面壁九年というような、坐禅をすることだけを連想するのですが、禅の世界観、禅的なものの観方は、日本の衣食住、芸事や術などの文化の中にも生きています。

 そして、金井先生は、野口整体を現代に説く上で、鈴木大拙が善を海外に向って説く上で取った手法に関心を持つようになりました。そうした関心が元になり、この章ができたのです。

 では内容に入っていきましょう。 

第三部で紹介する三氏と「禅思想」

 第三部は、第二章の鈴木大拙氏(1870~1966年)による「東洋と西洋のものの考え方の相違から禅を説く」という視点を主として、「野口整体の道を考える」ものとなっています。

 東西の相違を知る上で重要なのが第一章です。ここで取り上げるドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)は、西洋で失われた「内なる霊性の自覚」へ至る道(神秘主義)を求めて日本の禅に関心を持ち、1924(大正13)年、東北帝国大学・哲学講師として仙台に赴任しました。

 そして、禅に少しでも近づけるならばと、弓道修行を行いました。また、ちょうどヘリゲル滞日中に出版された、英語による鈴木大拙著『禅論文集』(1927年)にも大きな影響を受けました。

 鈴木大拙氏は、近代科学と理性の限界を見据え、これを超える智としての「禅思想」を欧米に向けて初めて説いた人です。

  禅は本来、言葉や文字に信頼を置かず、坐禅などの修行を通じて、言葉を超えた本質へと直接的接近を試みようとするものです。それは、宗教行為の中で最も大切な、自己の中の「霊性の自覚」や「悟り」だけに価値を置くという、例外的な宗教なのです。

 言葉や文字に信頼を置かないというその特質により、伝統的な禅は、「思想」というものを断固と拒絶してきました。しかし12年に及ぶ米欧での生活を体験した大拙氏は、「世界的見地において、禅にしっかりした思想がなくてはならない」と考え、禅は大拙氏によって、初めて思想の衣を帯びることになりました。

 これは、禅を西洋に伝えるという氏の使命感、および情熱がなしえた偉業と言えるでしょう。ここに大拙氏の新しさ、氏が切り拓いた禅の新境地があるのです。

 ヘリゲルが日本での弓道修行を基に著した『弓術における禅』は、第二次大戦後の1948年ドイツで出版され、西洋に「禅とは何か」を伝える書として浸透していきました。そして、大拙氏とヘリゲルの著作は禅の指南書となり、1960年代、米欧で禅ブームが起きたのです。これは、この時すでに、米欧では近代科学と理性の限界を超える智が求められ始めていたからです。

 しかし日本では、私が師野口晴哉に入門した1967年当時、高度経済成長の最中で、まだ、そのような時代ではありませんでした。

 本書では、現代日本人の身心、また社会に起こっている問題の奥には「近代科学と理性の限界」があることを、一部、二部を通じて述べてきました。その限界を超えるために必要な、思想としての「禅」(これが「後科学の禅」の意)を説いたのが鈴木大拙氏です。

 野口整体が生まれたのは、日本の近代化(西洋の近代科学文明を取り入れること)を通じてのことですが、鈴木大拙氏が世界に伝えた禅も、近代化を経て再編された新しい仏教でした。第三章では、その気運となった日本仏教の近代化について述べていきます。

 明治新政府神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、神仏分離令を発布しました。これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動(「仏を廃し釈尊の教えを毀す」暴動)が起きたのですが、それは江戸時代からの、民衆の仏教者に対する反感からでした。こうしてこの時代、仏教は衰退の危機に見舞われたのです。

 このような状況を打開するため、日本仏教界の先進的な人々は、新しい仏教の構築を模索し始め、江戸時代の旧弊(第三章二 2②で詳述)を脱し、仏教が近代的に生まれ変わる必要があることを痛感するようになりました。

 大拙氏の禅師であった釈宗演師はその急先鋒であり、1893年アメリカのシカゴで開かれた史上初の万国宗教会議で、日本仏教界代表として演説をすることになりました(貞太郎(後の大拙氏)が師の演説の英訳を引き受けた)。

 当時、世界で最も近代化が進んだシカゴでは、科学技術の進歩による貨幣経済ダーウィンの進化論によって、キリスト教は衰退の危機にありました。

 こうした社会背景の下、アメリカのキリスト教界は、キリスト教威信回復のための、絶好の機会として「万国宗教会議」の開催を推進したのです。

 宗演師は、この会議を「仏教東漸(とうぜん)」の機会と捉え、伝統仏教から脱却した近代社会に合致する、新しい普遍宗教としての仏教の可能性を提示することを試みました。

 こうして、東洋・日本の仏教が西洋に伝わることになりましたが、この仏教の近代化への試みが、後に大拙氏が、世界へ向けて「ZEN」を発信する契機となったのです。この「世界の大拙」が生まれる機縁を生じさせた時代と、その生みの親・釈宗演師の軌跡を辿り、近代以後に必要な宗教性とは何かについて考えます。

 野口整体の思想基盤には禅があり、野口整体を体得する道筋としては勿論のこと、野口整体に携わるには、禅を理解することが求められます。このため第三部には、論理を超えた深い内容が含まれていますが、本書(『野口整体と科学 活元運動』Ⅰ・Ⅱ)の内容を理解するための締め括りとして、時をかけて精読して頂きたいと思います。

オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)

ドイツの哲学者。ハイデルベルク生まれ。1924(大正13)年5月、東北帝国大学哲学講師として来日し、仙台に居住する(1929年(昭和4年)8月まで)。

1926(昭和元)年春から妻と共に、東北帝国大学弓術部師範であった弓聖・阿波研造(1880~1939年)に弟子入りをし、弓道修行に打ち込む。帰国する頃には、師より免許皆伝・五段の免状を受けるまでに至る。

鈴木大拙(1870~1966年)

仏教哲学者。本名は貞太郎。石川県金沢市生まれ。東京帝国大学哲学科選科に学び、鎌倉円覚寺臨済宗)の今北洪川、釈宗演に師事。1897年アメリカに渡り「大乗起信論」の英訳、「大乗仏教概論」の英文出版を行う。1909年帰国後、学習院教授を経て大谷大学教授となり、英文の仏教研究雑誌「イースタン・ブッディスト」を創刊。戦後は米欧の大学で講義を行い、仏教や禅思想を広く世界に紹介した。

1949年文化勲章受章。1966年95歳で死去。著作に『禅と日本文化』(岩波書店)など多数。

釈宗演(1860~1919)

臨済宗の僧。若狭国高浜(現福井県大飯郡高浜町)生まれ。今北洪川の法を継ぐ。慶応義塾に学び、セイロン(スリランカ)に留学。のち円覚寺派建長寺派の管長を兼務。明治26年シカゴでの万国宗教会議に出席し、初めて米欧に禅を紹介した。その後も鈴木大拙と共に世界に禅を喧伝した。夏目漱石徳富蘇峰らが参禅し、大正期に禅ブームを巻き起こした。臨済宗大学(現・花園大学)学長。

第二部 第四章 三6 自己を知り、活かす生き方を目指して― 日本舞踊を通じて、「身心一元」の意味を悟る

(近藤)

 今回の内容に出てくる「身体サミット」は河野智聖氏が主催した会で、河野氏のご招待で金井先生と真田さんが訪れたと記憶しています。

 文中の青木宏之氏は「心身を開発する現代人のための体技」新体道という総合武道を創始し、「遠当て」という離れた相手に対する非接触の攻撃技を会得、筑波大学で行われた国際シンポジウム「科学・技術と精神世界」(1984年)で披露し、気のブームのきっかけとなったことで知られています。

 真田さんはこの後、花柳流の日本舞踊に入門します。少々唐突と感じるかもしれませんが、原稿にもそのつながりについては述べられていませんのでご了承ください。

6 自己を知り、活かす生き方を目指して― 日本舞踊を通じて、「身心一元」の意味を悟る 

 2010年11月23日、真田さんは東京で開催された「身体サミット」という対談と演武の会に金井先生と出席することになり、青木宏之氏の講演を聞き演武を見る機会を得た。

 真田さんはカトリックを信仰するクリスチャンだが、青木氏もクリスチャン(プロテスタント)であり、真田さんにとって神学に対する造詣が深い青木氏の講演は非常に興味深いものだった。

青木氏の演武は真剣を持って行われ、真田さんは「神との一体感を表しているかのようであった」という感想を述べている。信仰、霊性という心の領域が身体の技にそのまま現われた美しさを感じたそうだ。

 真田さんは、以前に中国の少数民族の舞踏家、ヤン・リーピンの公演を見た時のような感動を再び得て、日本の伝統に根差した身体技に強く惹かれるようになった。そして、「自分の心を身体でありのままに、自由に表現したいという渇望」が沸き起こったという。

 ちょうどその頃、真田さんの妻は日本舞踊を始め、その話を聞いた真田さんは「自分もやってみたい」と強く思い、花柳流に入門することにした。

 真田さんは日本舞踊の稽古で「足使い、腰使い、重心の置き方などが、日常の所作ととても違う」と感じ、活元運動を始めた当初に感じた「身体の不自由さ」をそこでも感じたそうだ。

 しかし、踊りの一つ一つの動きが少しずつ身についてくると、その所作の中で「躍動と静寂が一体となっているような感覚」を得ることがあると言う。

 それはスポーツでの躍動感とは異なった感覚で、スポーツでは筋力に依存するためか、強い躍動のあとには消耗感を感じる。その限界を超えるために筋力を高めトレーニングを積み重ねるようなものだ。しかし日本舞踊は、振りが身に着くと、それが自分の自然な動作そのもののように感じる。

 身に付かない時に感じる不自由さというのは、振りの通りに身体を動かさねばと考える私と、動かされる身体、という二元対立の中にある不自然さ・ぎこちなさであるが、動きが身に付くと、そのようなことを意識することがなくなり、快い動きとなる。

さらに練達すると、踊る人の生命の迸りが踊りの中に表れるのかもしれない。真田さんは、日本舞踊の稽古を続けながら、整体指導で気づきを得た「身心一元」は、このようなことに通ずるのではと考えるようになった。

 整体指導を通して、真田さんは少しずつ自分自身を理解する作業を続けてきたが、整体指導は自分を活かすことを学ぶ道なのだとも思っている。そして整体というのは、「真の自己に向って成長し、その生命を活かし全うするための修養の道」だと言う。

修養を通して身体感覚を涵養し、豊かな感性を養うことで、真に自分の内面を深めることができ、心身の一体性が高まる。知性と感性は一体となり、より明晰な知性、より豊かな感性へと成長する。真田さんは、身心一元であるとき、人間は十全に生きることが出来るようになるのだと悟った。

 一方、心身二元の状態では、頭(理性・知性)での認識に依存する。頭による認識のみで自分を理解しようとしても、真の自己を見いだすことはできない。真田さんは次のように述べている。

真の自己は、「かくありたい」と欲し、頭(理性)は、「かくあるべき」と考える。「かくあるべき」が「かくありたい」と一致しない限り、自身の裡は、対立と混乱が生じる。これが心身二元の致命的な問題である。

「かくありたい」と欲する自己を知り、そこに向って成長していくためには、身体感覚による修養を通して、身体に回帰し、真の自己を感ずることが肝要だ。理性はその後で働かせれば良い。

(金井)

 この「かくありたい」というのが、野口整体の「要求」というものです。

(近藤・以下、括りとなる内容のため全文引用させて頂きます。)

 この稿の纏めの最終段階となった2011年7月17日、整体指導において金井先生から「自らが人馬一体となれ」との言葉を頂いた。馬を御すために馬と一体となるには、その前に自らが「身心一元」となるという意味だ。

金井先生から言葉を頂き、私は一つの悟りを得た。身心一元となって生きることは、他者と対立せず、他者を活かし、自ら精進する道を歩むことである。

 人を支配するのではなく、人を活かす道、活人剣の道こそが、これから私が歩み修めていく道である。私は、自己理解が進む中で、大義を通すためであれば、人に嫌われ、恐れられ、疎まれることを厭わなくなってきたが、そのことで多くの敵を作った。そして私は、敵は必ず制するものと、これまで考えてきた。しかし、金井先生の言葉を踏まえ、これからは、気の感応を通して、自ら敵と一体となり、敵を活かし、転じて同志ならしめるための修養を深めていきたいと心に決めた。

 身心一元の修養は生涯続く。一歩、一歩、各日に歩もう。そして齢(よわい)を重ね、死を迎えるとき、限りなく豊かな自分であるために。

 

第二部 第四章 三5② 意識以前にある自分

 今回紹介する「意識以前にある自分」は、金井先生が入門した1967年に月刊全生に掲載された記事で、野口先生の若い人たちに向ける熱が伝わってくるような内容です。

 真田さんは、子どもの時に感じていたことがいまだに自分の感受性に影響を与えていることに気づく…という体験をしました。感受性の歪みは簡単に修正されるわけではなく、気づいた後も同じ穴にはまってしまったり、新たな歪みに気づいたり、さらに異なる潜在感情が潜んでいることに気づいたり…ということを積み重ねていくことがほとんどです。

 しかし、気づくことで「日に当てる」ことができると、真田さんの中にある「恐れ」は支配力が次第に弱まっていき、恐れを感じた時に身体的に自分を立て直していけるようになるのです。

 それでは今回の内容に入ります。今回は全文金井先生の原稿で、そのまま掲載します。

5② 意識以前にある自分

 三 1の「腹が空っぽ」、4の「肚」の体験、こうした身体的経験自体が、河合隼雄氏の「自我から自己への中心の移動(第一部第五章三で詳述)」というもので、ここから「主体的自己把持」へと進むのです。

 師野口晴哉は、「《潜在意識教育》意識以前にある自分」(『月刊全生』1967年6月号)の中で、「自分」というものを捉え直す大切さについて次のように述べています。

自分で作った自分

 私達が今「自分」と考えているもの、或いは自分はこういう事ができる、これこれこういう人間であるというように、自分が理解している自分は本当の自分の全部ではない。生れてから、意識し経験し、体験してきた事の総合が自分だと、みな思っている。つまり考え様によっては、それは生れてから自分で作り上げた自分である。

…意識して作られた自分、或いは他人の言葉によって「そうだ」と思い込んだり、自分の都合で「そうだ」と思い込んだり、自分自身で「俺にはこれ位の力しかない」とか、「俺にはこれだけしか力が発揮できない」とか言うように、いつの間にか自分に限界をつけて、これこれこういうものが自分というものの実体だと、自分で思い込んでいる。しかしそれは、「意識した自分」であり、「意識で作った自分」である。

…意識が心を造ってきた。赤ん坊でも、始めは意識は少いが、生まれてからは造っていく。その意識以前にも、やはり自分があった。自分があったからそれを意識するようになったのである。

 その意識以前の自分というものは、細胞をつくってゆく、子供を造ってゆく。眼球を造ってゆく、心臓を造ってゆく。皆そうやって、我々が今この世にあるような形になったのである。意識すら、意識以前の自分が作ってきた一つの働きなのである。

 人間の中には、もっともっと大きな力がある。無限の可能性を潜めている意識以前の自分に対して、意識して作った自分(自我)が非常に強固であるために、これが自分であるというように思ってしまって、本来の自分を発揮できなくしているのだ。意識で造ったものを打破する必要がある。

「意識で造ったものを打破する(自我の再構成)」ことで、無意識にある「潜在的可能性」が現れるのです。活元運動を真に行うことでなされる、一時的な「自我の消失」の繰り返しは、これを涵養するものです。

第二部 第四章 三5① 私を抑えていた「悲しそうな母の顔」― 幼いころの二つの思い出

(近藤) 

 この『野口整体と科学』の原稿にはないのですが、『「気」の身心一元論』収録の原稿には、真田さんが個人指導での「腹」の体験の少し前に、ふと思い立って子どもの時に住んでいた場所に行った時のことが述べられています。

 真田さんにとって、子どもの時の記憶は「総じて暗いという印象」であり、特に懐かしい温かい場所というわけではなかったのですが、なぜかそういう気になったのだそうです。

 この時、暗い漠然とした印象しかなかった子ども時代にも、楽しかった時があったことが思い出され、「どんより曇った記憶に薄明かりが射すようになった」と述べています。

 指導時にこのことを金井先生に話すと、先生は「現在が変わることで、過去が変わるのです」と言ったそうです。そして3、4の「腹」の体験を経て今回の出来事、というのが時系列となっています。

5① 私を抑えていた「悲しそうな母の顔」― 幼いころの二つの思い出

 2010年8月、真田さんは妻と北軽井沢を訪れた時、子どもの時の記憶が蘇りそれを妻に話すという出来事をがあった。

 それは、真田さんが3歳位の時のことで、これまで何度か思いすことはあったが誰にも話すことができなかったことだが、ぼんやりしていた記憶が克明に一部始終思い出されたのだった。

この記憶の中心になっていたのはその出来事自体と言うより、「母の顔」だった。

 幼かった自分がしでかした事で、困惑し悲しそうな顔をしている母。真田さんの中にはいつもそんな表情の母がいて、それは自分のせいだと思い込んでいたことに気づいた。真田さんは、いつの間にか自分のしたいように行動すると母悲しませることになる、という潜在意識が裡に形成されていたのだと思った。

 真田さんが小学校二年生位の時のことだ。隣にドイツ人の家族が越してきて、真田さんはその家のマックスという同い年の子と仲良しになった。その子はドイツ人学校に通っていたがあっという間に日本語を覚えてしまい、いろんなことを競い合う良い遊び仲間だった。

 ある時、二人は空き地に枯れ枝が積んであるのを見つけた。そして、この枝に火をつけて、その熱の力で空を飛び、どちらが高く飛べるか競おうという話になり、本当に火をつけてしまったのだった。

 炎は高く燃え上がった。空き地の隣に住んでいたお菓子の老婦人がそれを見て驚き、真田さんの祖母に知らせ、さらに駐在所の巡査にも通報してしまった。祖母は真田さんの母にとっては姑であり、家柄を誇りに思うタイプの人だった。

 火はしばらく後に自然鎮火したので真田さんは帰宅したのだが、玄関先に巡査がいて、祖母と何やら話をしていた。祖母は真田さんを見るなり怒った顔で母を呼ぶように言った。

 そして真田さんと母は、祖母の前で巡査にこっぴどく叱られてしまった。その巡査は母に「このような高貴な家の長男を育てるのだから、しっかりしろ」というようなことを言った。それはいかにも祖母が気に入りそうな言い方で、その時の母は本当につらそうな、悲しそうな顔をしていた。

 子どもだった自分が取った行動によって、母が祖母(姑)に叱られる…という出来事が繰り返されることで、「恐れ」とう感情がいつも真田さんを抑えるようになっていった。

 自分らしさを表に出し、思ったように行動すると、母を悲しませることになる…という恐れが、自分を抑え波風を立てないようにして処世する生き方に向かわせ、真田さん自身を本来のあり方とは違う方向に歪めていったのだ。

 その恐れは突き詰めると「嫌われたくない」という恐れだった。真田さんは母の悲しそうな顔を見ると、母に嫌われるのでは、母が自分を見限るのでは、と恐れていたのだ。この「恐れ」は、母のみならずこれまで出会った他者のすべてに感じてきたことだった。そして、本来の自分ではない在り方を「自分とはこういうもの」と思い込んでしまうようになったのは、こうした背景があるのだと思い当たった。

 真田さんは、周りを見て「こうすべき」と考えたことをする癖、そして潜在的な「疎外感」も母の愛情を失うことに対する恐れにつながっているように思った。

 身体感覚に注意を集め、感じることを深めていくことで、意識下に沈んでいる記憶が蘇る。真田さんは、それが自己理解を深めていくはたらきとなるのだと痛感した。

 野口整体の個人指導では、気による働きかけを通じて身体の中にある本来の自己を感じ、受容し、成長させる。私の場合、体癖を通じて本来の自分を知ることによって、自己認識を感覚と感情に根差した理解へと改めること(主体的自己把持)につながった。そこから、自分を成長させる歩みが始まるのだ。

 心理療法におけるカウンセラーの支援は主に言葉によるものだが、金井先生の指導を通じての認識の深まりは、言葉を介して自己の内にあるものを引き出し、受容することとは異なる実感がある。