野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四6 活元運動についての質問に答える Ⅰ

 今回から、活元運動についての質問に金井先生が答えるという貴重な内容に入ります。

 

 当会の「活元指導の会」を主催する者に対して、参加者からのよくある質問を挙げ、私として答えてみます。

Q1 どのくらいやれば、活元運動が出るようになるのですか?

 このような質問はよくされるのですが、これは全く個人差があります。意志を以って活元指導の会に参加しながら、活元運動が出るのに長い期間を要した人もあります。しかし、初めての個人指導の場において、活元運動という言葉も知らず見たこともない(行う意志が全く用意されていない)人で、私が愉気しようとしただけで、それらしき運動が出てしまうこともあるのです。通常は、この両者の中間に当たる人たちがほとんどです。

 運動を誘導するのに愉気を行ないますが、愉気をされた人が気を感受することを「気の感応」と言います。しかし、感応が良くて運動が出ればいいというものではなく、過敏な処だけが動いても自然ではないのです。

 そして、いきなり動いてしまう人に見られる傾向として、「心が忙しく落ち着きがない」という問題があるのです。意識が冷静なことも「整体」である大切な要素ですから、動いたから良いとは決して言えません。活元運動が自然(じねん)の状態になっていることが望ましいのです。

 活元運動を行うことで体が整うには、整体であるという「身体感覚」が養われなければなりません。そして、こういう感覚に至るには一定期間を要します(四 2野口昭子夫人の文章参照)。

 また「天心」は「上虚下実」の身体からもたらされます。「腰・肚」を中心とした身体を養うよう、正坐がきちんとできる身体に進んでいくことです。動的瞑想法としての活元運動と、静的瞑想法としての正坐を併せて行なっていくのが良いのです。

 師野口晴哉は、活元運動の発展について次のように述べています(『月刊全生』)。

生きるための教養

…活元運動はやっていくと、体の動きがだんだん進歩してきます。永い間使わない能力ですから、体の方々が錆び付いて鈍っているのです。敏感なら出るべきなのに、鈍っているために出にくくなっている処がある。それは、或る過敏な処があって、そこだけで動いていて、鈍い処を立て直すように動いてこない。これからは活元運動自体も、もっと教育して、全体が自由に動くようにしなければならない。ただ動いたから活元運動だというわけではない。動いて、それが体の鈍い処を回復するように動いていく、その時の体の状況に合うように動いていくようにならなければ本当ではない。朝も夜も昨日も今日も同じ活元運動というのでは、過敏な処だけ動いて、発展がないのです。そういう場合に体の鈍っている処を少し愉気したり刺激したりすると、活元運動が自由に出てくる。そこで活元運動がスムーズに出てくるようにするために、体の鈍りの調整という技術が要る。活元運動は当然発展しなければならないからです。

だから、教養として体を正しく保つための教育(思想の理解)ができ、そういう鈍い処に働きかけて、体がノルマル(ノーマル)な状態に帰るように導く技術のある人が活元運動を指導してくれたならば、これはキチンといく。活元運動をやっても、本当に鈍ってしまっている人は活元運動が出てこない。

 個人指導も活元指導も、ともに愉気法が基本にあります。愉気法は、人間の裡にある力を喚び起こすもので、繰り返すごとに、だんだん効くようになるのです。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四5 静中動・動中静― 活元運動は動く禅

 活元運動は「動く禅」と呼ばれ、坐禅同様、大脳の外側にある新皮質が沈静化し、内側の古い脳(大脳皮質下の辺縁系と脳幹)が活性化するものです(新皮質は意識脳と呼ばれるのに対し、辺縁系以下は無意識脳と呼ばれる)。

 それは、体が動いて脱力することで新皮質が休まると、辺縁系が活発となり、さらに脳幹部が活性化するのです。

 また、背骨の動きが良くなることで脊髄の反射機能を回復させます(脳幹(=間脳・中脳・橋・延髄)の下部に脊髄が連なる。)。

 禅の「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)(戒律・禅定・智慧)」とは、「自分を戒め、心を落ち着ける(定)ことで本当の智慧が啓かれる」という意味です。「身体智」とは、この「智慧」を意味しているのです。

 師は活元運動によって心を澄ませてゆくことについて次のように述べています(『風声明語』)。

動く坐禅

…活元運動を行なっていると、いつの間にか心は統一してきます。統一しようとか、入定しようとか余分な考えは捨てて、ただ活元運動を行なうことがその秘訣です。裡の要求で無心に動く、その自然の動きの中に統一への道があるのです。

 心は心のはたらきで動く他に、筋緊張によって自動的に働いてしまう性質を持っているのです。それ故歩き乍ら考えたり、考え乍ら話をしていると、手や体をいろいろと動かしてしまうのです。それ故筋の張弛(金井・筋肉の緊張と弛緩)を無視して心を静めようとしても、逆現象を生ずることが多いのです。寧ろ余分に硬直している筋を弛め、過度緊張の筋を柔らげる方が心は静かになり易いのです。

 そう考えると、活元運動によって心を澄ませてゆくということは間違っておりません。意識して動かすことより、無意識に動く活元運動の方がより適していると申せましょう。

 正坐が「静」の瞑想法であるのに対して、活元運動は「動」の瞑想法なのです。

私が身体の観察をする(形を捉える)時、その要点は裡なる動きを観ているのです。正坐して外的には何ら動かない状態であっても、裡が活動的な身体には、その動きを感得することができます。それの最も良い姿は、まさしく「今、ここ」という禅的な状態です。

 しかし、同じく正坐した「静」の状態でも、裡に動くものがない状態は、心が停滞している場合です。停滞とは、何らかの感情的な滞りなのです。これらの判断基準の中心に重心位置の問題があります。

 先の「今、ここ」という、ぴたっと正坐が決まる状態は腰椎に重心が定まっています。この時、私には裡の「動」というものが感じられます。

 高校時代、「保健体育」担当で剣道部の顧問をされていた先生に「静中動・動中静」という言葉を教わったのですが、「静中動」とは、まさしくこのような状態です。こういう時、私は静まり返った身体の中に、活動的な精神のはたらきを感じることができるのです。

 一方「静」に対して、「動」の場合があります。それは独楽が高速で回転している時、その動きの中心が静止しているように、「動の中心には静がある」のです。つまり活発な運動の中心には、動かない一点(丹田の自覚)があり、この「不動の中心」と呼ぶべきものを、室町時代の能役者・世阿弥は「無心」とか「空」と呼んだのです。これが「動中静」です。

この「静中動・動中静」という言葉は、思春期の私に根付いたのです。整った体とはこのようなものです。

自分の心が空(=無心・天心)になる(自分が空っぽになる)ことで、「生き宮(註1)」としての高度な「身体性」が発揮され、裡にある「神性(仏性)」を顕すことができるのです。

「身体智」とは「内在せる神なるはたらき」であり、何事も自然に任せ切るという行き方、つまり随神(かんながら)の道(註2)ともなっていくのです。

(註1)生き宮 神が降りる宮としての身体。

(註2)随神 神道とは、森羅万象を神々の体現として享受する「随神の道(神と共にあるの意)」であるといわれる。

禅文化としての野口整体 活元運動 第二章 四4 修行としての整体生活

「修行」という言葉を聞くと、苦しみに耐えることや難行苦行をすることを思う人が意外と多くいます。しかしここでは、そういう行為を修行と言っているのではありません。以前引用として出て来た内容ですが、野口晴哉は次のように述べています。

大人の天心 1973年5月整体指導法中等講座 

…人間の体で一番健康状態に関連があるのは体の弾力であります。つまり体や心に弾力を持っていないと体の自然の状態といえないのです。

…それで体の弾力を、或いは心の弾力というものをどのような状態でも持ち続けるということに於いて鍛錬という問題が出てくるのです。大人になって天心を保つのは鍛錬が要る。いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。

 このように野口晴哉は辛い現実や苦労の最中にあっても心と体の弾力を保つこと、天心を保つことを「鍛錬」と言っており、そのために活元運動を行うことを勧めています。金井先生の「修行」もこれと同じ意味です。

 言葉の意味を理解したうえで、今日の内容に入っていきましょう。

4 修行としての整体生活

 活元運動を行なうことは、「澄んだ心」を身に付ける瞑想的修養です。

それは、身体性が向上する(身体感覚が高まる)ことによって「心の濁り(雑念)」に敏感になるからです(過敏ではない)。

瞑目してぽかんとすることは、起きている時に意識を休める(=瞑想)状態になることで、無意識からのエネルギーの供給を受けられる、ということなのです(これが師野口晴哉の「意識が閊えたら、意識を閉じて無意識に聞く」の意)。

坐禅を行う時、目を閉じるのは、視覚が大脳の新皮質を広い範囲で使う機能であることから、意識して新皮質を休めるためです。そうすることで古い脳と呼ばれる皮質下中枢(大脳辺縁系や脳幹など)や脊髄が活性化し、生命力が高まるのです。

 師野口晴哉

目玉を捨てろ。意識から離れろ。

然らば、道は自づから開かれる

と述べましたが、活元運動は無意識を拓くことなのです。

 インドでは「修行」に当たる言葉をタパスtapasと言うそうですが、元来の意味は熱、火を指し、物を温めるはたらきです(この温かさとは、「情動(感情)」のことを指す)。西洋の研究者は、タパスを「創造する温かさ」と訳しているそうですが、これは修行により、意識と無意識が統合されることで、無意識からの創造的エネルギーを意識とつなげ、自己実現を具体化することができるからです。

 日本のさまざまな芸道や武道の発展に大きな影響を与えてきたのは仏教の修行法ですが、仏教のひとつである「禅」を思想基盤とする野口整体は、指導者になる人はもちろん、指導を受ける人においても「修行」という、身体を通じて「心を磨く」という心構えが必要です。

「修行」という言葉の語感は、身体の訓練を通じて自分の心を鍛錬するという意味合いがあります。「修行」というものを真に理解すると、身体と精神は不可分のものであり、まさに身体が「深層心理」であることが分かってきます。

 整体であるための生活をする、とは「修行」する、という意識が必要なのです。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四3 身体感覚を高めて生命の全体性を捉える

 師野口晴哉は『整体入門』で、活元運動の反応について次のように述べています(第三章 外路系の訓練より)。

反応には三段階がある

 活元運動や相互運動をつづけていると、体が敏感になって、体の健康を保とうという働きが高まるので、それに応じて、いろいろな変動が現われてきますが、それらをひっくるめて、「反応」と呼んでいます。

師は、反応として以下の三つを挙げています。

(一)弛緩反応…初めだるくなり、眠くなってきて、妙に疲

れたような感じがするが、快い。そして身体全体が弛んでくる。

(二)過敏反応…身体に水が流れるような感じや、少し寒い

ような感じがして、発熱・痛み・発汗などの急性病に似た過敏な変動が起る。

(三)排泄反応…身体の老廃物や悪いものが体外に排泄され

る。排泄作用として皮膚に変化が現れたり、多汗になることもある。排泄が行なわれる度に快くなる。

(詳しくは『整体入門』六四頁を参照)

 同著の「反応の経過で注意すべきこと(65頁)」には、「バケツに三杯ぐらい下痢をした」などという表現がありますが、一般的にはこれほどのことはないと考えて良いのです。また先の反応三つが、誰にも同じように起こるものではありません。

 初心者として、また中級へと進む中で、活元運動について「これでいいのだろうか」と思うことがあると思いますが、「身体感覚」が発達することや「勘」が育っていく中で理解が進むものです。

『整体入門』や『健康生活の原理』で、反応について一通り読み、心構えを持つことは必要ですが、自身の身体と対話し、身体感覚にたずねることで反応を経過していくのです。

 身体感覚が発達すると、身体の快・不快に敏感になり、快を大事にすることで、「要求に沿う」ことができます。三 1でも取り上げましたが、師野口晴哉は「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。」と述べています。

(とりわけ科学的現代社会においては、「感ず」るに先立ち、考えることを止める、つまり瞑想意識を高めることが肝要)

 身体性の訓練とは「感覚・勘・直感」を磨くことなのです。

 ある母親は、自分の幼い子がアトピーを発症し、薬を塗った後、「さーっ」と湿疹が引いた我が子を抱いた時、その子がすっかり軽くなってしまった(緊張したことを意味する)ことを感じ、この時「二度とこのようなことはしてはいけない」と直感したとのことです。彼女は薬で湿疹を抑えることが全体に与える影響を感じ取ったのです。これは、モノの「重い・軽い」ではないのです。

 新生児訪問で、巡回の保健師が「バネ秤」で乳児の体重を測ることで、成長度合(標準の範囲かどうか)を見る(=数値に重きをおいて是非を問う)という現代では、数値化(註)できない「おもさ」に対する感性が失われています。

 これも科学的価値観を絶対視してきた影響です。背中に負ぶった子が、寝ると重くなることは、経験者なら良く理解するところです(眠りと脱力の関係)。

(註)数値化 科学的であることを示す三要素「数値化(客観的)・論理性(合理的)・再現性(普遍的)」の一つ。

 大人で敏感な人が、何らかの薬で、この子どもと同様軽くなってしまう(=気が上がってしまう)ことがあれば、どれほど不快なことか感じられるというものです。しかし、幼い子はこれを表現することはできないのです。

 本章一で紹介したNさんも、妊娠中の教職生活で無理が重なる中、三歳の長女に辛く当たるようになってしまったことで、娘が保育園にいる時、じんましんが出るということがありました。それで園の指導もあり、皮膚科に行き、処方されたステロイド剤を塗り抗生物質の内服薬を飲ませることになりました。

 劇的に効いて翌日には腫れが引きましたが、Nさんは「抑えるようなことをしていいのか」と迷い、二日で薬をやめたのです。

 するとその後一週間、じんましんは掻くたびに広がっていき、夜中もかゆみでイライラする長女をなだめ、タオルで冷やして寝かしつけるなどしていました。長女は甘え方が赤ちゃんのようになって、おっぱいを求めたりするようにもなったそうです。

 このような長女の「心理的要求」に、この時期応えていくのか、またはステロイドを塗って見た目だけ「問題がない」状態で過ごすのかは、その人(親)の感性で判断することです。

 身体感覚が敏感になると無意識がはたらき、部分に捉われず生命の法則に順うことができるのです。(表面的な症状に捉われず「全体性」を大事にする)

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四2 活元運動は身体感覚の発達によって理解が進む

「自分の健康は自分で保つ」ことができる方法があると、最近では、活元運動に関心を持つ人が増えています。

 活元運動により「自分の健康は自分で保つ」ことができるのですが、それには活元運動の質が良いものとなることです。質の向上には、訓練が進む中で「身体感覚」が発達することが肝要で、これについて述べたいと思います。

 2002年6月、『整体入門』(筑摩書房)が復刊され、ベストセラーとなりました。多くの人が整体協会に押し寄せる中、野口昭子夫人は「年頭のご挨拶」で次のように述べています(『月刊全生』)。

新年おめでとうございます。

 思えば六十何年か前、若き野口晴哉の『全生』に共感し、整体の道ひとすじに生きて、いつのまにか八十も半ばを過ぎました。

 この年になって思いがけないことは、自分の活元運動が若いころよりも軽やかになってきたことです。それは先生がこの世を去ってから、私にとって愉気と活元運動しかなかったからだと思います。しかも、自分の体の変動や苦痛を自分で経過したときのあの快さの積み重ねが私にとって整体の道をゆるぎないものにしました

 最近、野口晴哉著『整体入門』『風邪の効用』が市販され、多くの方達に知られるようになりましたが、整体の道は、知識ではなく体験を通してのみ理解できると思っております。

 傍線部は、現代の科学的傾向に対し、伝統的な道文化(茶道・舞踊など)と同様、野口整体は実践を先立てるものであり、身体でその思想を会得(また体認)するものであることを、昭子夫人は強調されているのです(近代科学の理性主義と東洋宗教の体験主義)。

 科学的なものは「理性で理解できるから信じる」という態度で良いのですが、整体の道は「行法を通じて理解を深める」という向き合い方です。これは「身体性」によって理解するということであり、整体は体験を重ね深めていく道なのです。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四 瞑想行としての活元運動― 瞑想的な意識と身体感覚を育てる 1

1 活元運動・準備運動を行う時の注意点― 正坐によって行う意味

 活元運動は「動く禅」と呼ばれる瞑想法です。

禅の瞑想では、何も考えないで長い間じっと坐り、湧き出してくる雑念や妄想が次第になくなっていくように努力するのですが、同じ目的を、錐体外路系運動によって行なおうとするのが活元運動です。

 ですから、活元運動は身体が「無心」の状態に至ることが目標です。その為、正坐による「沈思の実践」が肝要で、活元運動を行なう上で正坐は必須のものです。先ずは正坐をし、改まった気持ちで身体に向き合います。

 腰が中心となる正坐という構えは、身体や呼吸に注意を集め易く、自分の意識(心の状態)がどうなっているかの把握を容易にするという利点があります。

 そして、活元運動は無意識(また潜在意識)のはたらきですから、これを活発にするため、現在意識のはたらきを弱める(感情や理性を静め意識が裡に向かう)ことが肝要です(瞑想法一般のあり方と同じ)。

 活元運動に向かう心の態度を、師野口晴哉は「意識を閉じて無心に聴く」と表現しました。

 このようにして、活元運動の準備運動に取り組みます。

 準備運動を行っても、現在意識のはたらきが弱まらない(心が鎮まらない)時、そのままに活元運動を行なうことは良くありません。

 本章一(1②)で述べたように、交感神経が優位なままで、副交感神経優位の状態に切り替わることができない(頭の中にいろいろな気持ち(感情の滞り・雑念)がある)と、良い活元運動とならないのです。

 特に注意すべきは、活元運動を行なって「すっきりする」効用を味わった人で、ぽかんとならない(頭が忙しい)まま効用を急ぎ、活元運動をしようとすることがあります。これでは、無心の運動とはならないのです。

 長年の経験者なら「ぽかん」としないと、良い運動が出ないことは、よく承知していることです。

 良い活元運動とならない身体(意識)の状態があるのです。

 活元運動を正坐で行なうことは、上体の動きを下半身で支えるというもの(註)で、それで運動が発展することができるのです。

(註)正坐は下半身を屈して、上体を和らげる(腰より上を楽にする)もので、骨盤部や大腿部という下半身にきちんと力が入るのが、正坐の理想的なありよう。下半身に力が入ることで上半身の力が抜け、上体の自由度が増す(これが闊達な心=「上虚下実」の意義)。

 活元運動を行なう上では正坐が基本ですが、正坐をすると足が痛い人は、坐(ざ)蒲(ふ)(坐禅の際に使用する円形の座布団)や座布団(厚くないもの)を使う方法があります。より正坐が苦手な人は、椅子坐(背もたれのない丸椅子)も可です。正坐に無理がない(重心が低い)身体へと進んでから正坐での運動を行なって下さい。

 また、活元運動は疲れすぎて余力がない時は不適当です(特に、活元会の場ではなく一人で行なう場合)。そして自覚せぬ疲労(緊張)で、準備運動をしても「ぽかん」としないことがありますが、こんな時も活元運動は発動しにくいものです。余力があり、改まった気持ちで臨める時行なって下さい。

 自分の意識状態を自覚して活元運動を行い、運動によってその変容を感じ取ることが大切です。

 整体とは、「良い空想ができる身体」と言えますが、このような意識状態に変容することが活元運動の目標です(つまり、潜在意識のクリーニングである)。

 

禅文化としての野口整体 活元運動 第二章 三2 活元運動の準備運動

Ⅰ 邪気の吐出法(鳩尾(みぞおち)をゆるめる)

① 正坐(膝を少し開く)をして、肋骨の下、鳩尾(みぞおち)に両手を軽く当て、鼻から息を吸います。

② 吸ったらじきに、「はーっ」と(声を出しながら)口から息を吐いていき(老廃の気を全て吐く)、上体をゆっくりと倒していきます。

長く吐いていくのが良い。

③ 身体の弛みが良いと、吐き切った時に肩・腕の力が抜け、おでこが畳(床面)に着きます。

 弛むことが不十分な初心者は長く吐けないので、おでこが下に着かずともかまいません。

④ 次に鼻で息を吸いながら上体をゆっくりと起こします。

 この①~④までを三回ほど繰り返します。

息を、細くとも長く吐くことで弛むことを覚えましょう。

Ⅱ 背骨を捻る運動(体側・側腹をゆるめる)

① きちんと腰を伸ばして正坐をします。

② 左側から行います。後ろを見るようにお臍とその真後ろ(腰椎三番)で捻ります(次頁図)。逆側(右)の腿の内側に右手を添え、少し反動をつけるとよく捻ることができます。

③ 真後ろ一メートルほどのところを見たら、ポンと力を抜きます。

④ ①に戻り右側に捻ります(左側の腿の内側に左手を添える)。

左右交互に数回行ないます。

Ⅲ 訓練法(延髄に刺激を与える)

① きちんと正坐をします。少し顔を上げ、鼻から息を吸いつつ、両腕を挙げながら、腰を伸ばしていきます。

② 親指を内にして拳を握り、口から息を吐きながら、肩胛骨を寄せつつ背骨の上部(胸椎五番)に力を集めます(上図)。息を吐き切る手前で、親指をさらに握って、奥歯を噛みしめ、吐き切ったところで、ポンと力を抜きます。

③ この運動は三回だけ行い、三回目は軽くやって終えます。

④ その後、手のひらを上にして膝の上に置きます。目を閉じ肩の力を抜いて、体の内側に感覚を向けていると、体が動くような気がしてきます。

 最初は、それを増幅していくようなつもりで、動き出してきたらそれに沿うようにして体の自然の動きに任せてみましょう。