自分のことから始まる金井流潜在意識教育 7
生き方としての野口整体
思い切って短くしてありますが、④の最後にある引用文が塾で最初に教材になったのは、塾生になって二年目ぐらいのことでした。私はこれを読んで金井先生の講義を聞き、先生がやってきたこと、そして自分はこれから何をやっていくのかがはっきりしてきました。その時の感動を今でも覚えています。
金井先生はこれを読んでそうしてきたわけではないのですが、これこそが「自分のことから始まる」目的だと思うのです。その後も、ここは折に触れ読んできました。もし野口先生に奥義というものがあるならば、これではないかと密かに思っています。『愉気法1』なんて、ちょっと野口整体に関心のある人だったら誰でも読んだことのあるような一般向けの本で、笑う人もいるかもしれませんが。
この本以外の所でも、その人の姿勢、偏りから心(感受性)を見てとるということを、野口先生は折に触れて述べています。しかし知っていることとやることは違い、自分の内側を啓いていかなければ観えない、触れられないことなのです。
私は師として金井先生を尊敬もしていましたが、同時に先生が大好きでした。弟子としては共に過ごす時間が相当に長かったこともあり、よく怒られもし、また笑いもしました。あの純粋さ、真剣さ、無心になった時の集注力、跨ぎの型。今でもはっきり目に浮かびます。私は未だ先生の写真を見たいと思いません。聖人君子ではないけれど、先生といるだけで素の自分になることができました。
これからは、「野口先生と同じようなわけにはいかんが」と言いながら金井先生が歩んでこられたように、私も金井先生と同じにはなれないけれど、先生が伝えたかったことを振り返り、又伝えながら、整体指導の道を歩んでいこうと思います。
古い月刊全生を見ていると、野口先生が亡くなる前の二年間ほどは、ほとんど毎号のように「健康に生きる心」と題した、潜在意識教育法講座の内容ばかりです。それは野口先生の最後のメッセージであり、晩年の弟子である金井先生も、潜在意識の世界を探究してきました。私がそれをどう引き継ぎ、実践していくかは今後の課題ですが、それが私の整体指導の中心としていくことは心に決めています。
私は以前、金井先生から整体協会の徽章を太陽ではなく月とした野口先生のお話を聞いたことがあります。未出版の本の原稿となっている内容なので引用はできないのですが、太陽の光ではなく、月明かりで心の闇を照らすという意味を込めたのだというお話で、強く印象に残っています。
弟子になったころ、野口先生に「つぶされてしまっている」と言われた金井先生は、そこから身心を育て、癒しながら、そして自身の潜在意識にある影を見据えながら、熱海で整体指導を続けてきました。19歳から70歳まで医薬(西洋医学)のお世話になることはなく、亡くなる六日前まで指導を行い、入院したのは最後の一日だけでした。
こういう先生の生き方に対し、短いとか、もっと早く病院に行けばとか、そういうことを思う人、問題を指摘する人もいるかもしれません。しかし整体というのは死生観であって、自ら選ぶ生き方なのです。整体指導をやっているから病院に行けないのではありません。
最後に、どんなお経よりも野口先生の語録が似合う先生に、これを捧げたいと思います。
全生
生きているということは死に向かって走っている車の如きもので、その目的に到着することが早いのがよいのか、遅いのがよいのか判らない。しかしともかく進み続けていることは確かである。
一日生きたということは、一日死んだということになる。
未だ死ななかった人は全くいなかったということだけは確かであるが、その生の一瞬を死に向けるか生に向けるかといえば、生きている限り生に向かうことが正しい。生の一瞬を死に向ければ、人は息しながら、毎秒毎に死んでいることになる。
生に向けるとは何か、死に向けるとは何か、この解明こそ全生のあげて為すことである。
潑剌と生くる者にのみ深い眠りがある。
生ききった者にだけ安らかな死がある。
(野口晴哉『偶感集』)