野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

潜在意識教育と心身二元論

 20世紀初め、西洋ではフロイト深層心理学臨床医学に応用した「精神身体医学」が起こりました。今では日本でも「ストレス」という言葉が一般化するとともに「心身医学」「心療内科」という科のある病院も増えています。

 これは心理的要因を身体の病気の原因として認める医学というもので、そこで扱われるのは「心身症」という診断名の病症で、内科が中心だったのが今ではほぼ全科にわたって心身症が認められています。

 対処法は投薬などによることも多いのですが、「病気中心主義医学」の限界とそれに対する患者側の不満が心療内科の普及を後押ししているのだと思います。

 心身医学(心療内科)で病因とする心理的ストレスというのは「情動(怒り、不安などの不快情動。感情)」で、身体的な不快感を感情(心)として感じることのできない人が「心身症」という診断のつく病気になりやすいと言われています。意識化できる「体にくっついている心」の領域が狭い、身体感覚も鈍くて、意識に上ってくる体からの情報が少ないのです。(整体で言うところの「鈍り」という問題ですが、この点については改めて述べる予定)。

 野口整体では心が関係しない病気は無い、という立場に立っており、病症の把握の仕方は心身医学(野口先生の時代は精神身体医学と言われていたが、サイコ・ソマティック・メディスンの訳)と共通したところがあります(同じ環境にあっても個人によって感じ方が違い、感じ方によって恒常性や適応能力が影響を受け病症が起こるという捉え方)。

 前回引用した文章で、野口先生は次のように続けています。 

…心のことと体のことをひっくるめて、それらを一つものとして考え、体の丈夫になる心の使い方とか、心が丈夫になる体の使い方とかいうことが考えられなくてはならないと思うのです。

・・・心身の研究様式をバラバラにしているから、丈夫な体をつくったって、心が弱いままであったり、一見丈夫に見える体でも実は弱かったりということが出てきてしまうのです。それは人間の心と体が一つものであるということが学問的に解明されないからなのです。

 人間が一人一人だという当たり前のことも学問としては存在していないのです。要するに個人がないのです。人とか、民衆とか、大衆とか、国民とか、人民とか、そういう名の下にあるだけで、一人一人というものは学問の対象になっていないし、まして一人一人の体の内容や心の内容は全部学問ではないのです。(『潜在意識 3』月刊全生)

 ここで野口先生が意味する「心」が体にくっついている心₌潜在意識であり、「学問」と言っているのは私たちが小学校から大学までで学ぶ教育内容のことです。その基礎は西洋医学と同様、近代科学に基づいています。

 現代の社会は近代科学を基礎としているために、客観的に見ることで外界についての知識を得て、それを支配する法則を発見し、応用する思考を身につけることが、社会的適応のために必須となりました。こうした思考を、自分の身体にも応用して捉え、対処を考えていくのが西洋医学的な身体観なのです。

 頭で体を分析したり治したりするのではなく、体の方から自分を捉えていく、体から心(意識)のあり方を整えていくということは、現代の主流となっている考え方にはないものです。つまり野口整体は、今、同時代を生きているほとんどの人は教えられていない智だということができるのです。

 未刊の本の原稿ではありますが、先生はこの引用文は整体の道に入って四度目の正月潜在意識教育法講座(1971年1月3~5日)の内容であると述べています。

 1973年生まれの私は、金井先生のお話と原稿を通じて、現代を生きる人が野口整体を学ぶ時、こうした根本を学びながら「自分がこれまで受けた教育にはなかった世界に入るのだ」という心構えを持つことは、非常に大切なことだと思うようになりました。