野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

自分がわからない現代人と心身二元論

 恥ずかしい話ですが、私は昔、「ほんとうの自分」や「やりたいこと」が分からなくて、探し求めていた「迷える若者」でした。

 しかし、整体を始め、金井先生の指導の下、学びを進めていくうちに、そんなものを探していた自分は、ばかだったな・・・と思うようになりました。それは自分の体こそが自分の本体で、ほんとうの自分というのは「感情」と一体のもので頭の中にはないこと、そして「やりたいこと」は体から発するもので、それが分かる身心の状態があり、そうでなければ自分のこともやりたいことも分からない、ということを知ったからです。

 また最近、「出家したい」という若い男性の話を聞く機会がありました。その彼はさまざまなことをやってきた人で、自分の生きる道というか、自分はこれだという確証が持てずに来たと言いました。その彼が行きついたのが仏門に入るということだったようですが、仏教そのものを彼はよく理解しておらず、やみくもに行動しようとしている、という危うさを感じました。

 整体の観察を通じて観える彼は「頭のはたらかない状態」にあり、体も大きく捻れ、意欲的とはいえない状態にあるようでした。こういう状態では自分がどうしていいのか分からずに、とにかく行動せずにはいられなくなるだろうなと思います。出家というのはいささか極端ですが。

 昔の私も、最近出会った彼も、共通しているのは「体」というものが自分の中から抜け落ちているということです。ここで言う体は、病院でCTを撮ったりして診る体ではありません。整体で観る「体」です。

 最近は自分のことなどそもそも考えない人も多いので、この彼は良い方なのかもしれませんが「自分のことがここまで分からないという人は、自分の若い頃にはあまりいなかった」と、金井先生は生前よく言っていました。

 また、クリスチャンであった塾生が、キリスト教の「霊」と「肉」(自分を霊と肉に分ける)について話をした時、「肉」は罪の源、という話の流れから、金井先生が「それ(肉というもの)は誰なんだ?」と言ったことが心に残っています。霊というのは何で、肉というのは何なのか、自分というのはどこにあるのか?クリスチャンは霊(のみ)が自分であると思いたいようなのです。

 金井先生の個人指導では、体(偏り疲労)の観察を通じて本人の内では漠然としている心(感情のうっ滞)を観て取り、明瞭にしていくことを着手としていました。愉気操法、活元運動を通じて身心ともに滞りが流れれば、本心が発動し、体の自然を取り戻すことができる。そうなれば自ずと健康保持ができるのです。

 自分のこと(感情は「自分」そのものです)が良く分からないということは、人生を生きる上でも、恒常性維持機能(ホメオスタシス)が十全に働く上でも問題となることであり、漠としたままに潜在意識化した感情や観念に動かされて、不健康な方向へ向かわないようにするのが、金井先生の個人指導であったと思います。金井先生は野口先生の潜在意識教育を深めていったことでこういう指導をされるようになりました。

 そして先生は、現代日本人の「自分のことが分からない」度合いが、確実に進行しているという危惧を持っていたのです。それが、どうも「近代科学」の影響によるものだと知ったのは、河合隼雄著『宗教と科学』(岩波書店)を通じてのことでした。

 西洋ではキリスト教と科学は対立してきたという歴史を知っている方も多いと思いますが、実際には世界観を共有しており、キリスト教と科学の扱う分野をはっきり分けたことで近代科学が成立し、発展してきたという思想的な歴史があります。その問題の大きな一つが、心の世界と物の世界を分離してしまったことで、心と体を分けるという発想もそこに基づいているのです。