心に常に主あるべし―立川昭二氏に『江戸時代の気の医学』を学ぶ4
心につねに主あるべし
立川氏の著書の中にはないのですが、金井先生は『養生訓』(『養生訓・和俗童子訓』岩波書店 一九六一年)原文の「養生に志あらん人は、心につねに主あるべし」という一文を読んで、「これだ!」と言っていました。それは次のようなものです。
巻第一 総論上(四〇頁)
養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿(いかり)(註)をおさえ、慾をふさぎ(註)て、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿(いかり)と慾(よく)をこらえず、ほしゐままにして、あやまり多し。
これを現代語訳(意訳入り)すると、
「養生を志そうという人は、心にいつも主たるものを持たなければない。
主があれば、思慮深く正しい判断ができ、怒りに動かされないし、欲望に引きずられることがなくなり、間違いがなくなる。心に主がなければ、判断力がなく怒りと欲に動かされるままになり、失敗が多い」
となります。
仏教では、心の中にある怒り・恨みを起こす種を「瞋(しん)」と言います。それは「自分がないがしろにされた」という思いであり、自己愛であると説かれます。
この「瞋」から生じるのが「忿(いかり)」という感情です。「慾をふさぐ」ほしがる気持ちを制御する、ということです。
つまり「瞋」は潜在意識で、「忿」は行動・言動・表情などに表出する感情ということです。
私は「怒り」の大元は自己愛、不満であり、怒りはその種から生じる。また、「充たされない」ので欲に引きずられる・・・と読めました(欲望と感情の二つを、益軒は「内慾」と呼ぶ)。
養生とは心と体の使い方を学ぶ「道」であり、養生の道を志すとは、このような自身の情動に動かされないような「心と体の持ち主」となることなのです。
型を身につけ、腰と肚を自身の存在の中心とする日本の身体文化は「腰肚文化」とも言われます。
感情(怒り・不満・不安など)は鳩尾の緊張として体に残りやすく、それが健康状態に影響します。金井先生は腰ができていると鳩尾の緊張が弛みやすく、鳩尾の虚を保持することができると説いていました(これが「上虚下実」の目的)。
そして脊髄行気・合掌行気などの行気法を通じ「心で気の集散を自由にする」(野口晴哉『整体入門』など参照)ことで、心の自由を得ることができると説きました。 そのように身心に気を通して生きることが、心と体の主という「主体性」を養うのです。
野口晴哉先生は「心や体をつかう筋道を知らせるつもりで、私は整体指導ということを掲げてやっている」(月刊全生)と述べました。
金井先生は、伝統的な日本文化では主体的な「身体性」を育む文化があり、「教育」も「医療」も、生き方の問題として総合的に捉えられていたと述べています。そしてその母体となったのが日本の「気の文化」であり、そこから野口整体も生まれたのだと考えました。
金井先生にとって野口整体とは、野口晴哉先生という一人の人間が創始したものではありますが、近代という危機的な時代に、日本人(広くは東洋)の魂(ユングの言う集合的無意識)から生まれた叡智というべきものであった―と思うのです。