野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

潜在意識の世界を啓くために必要なこと―ユング心理学と金井流個人指導3

潜在意識の世界を啓くために必要なこと 

 野口晴哉先生は「自分との対話」について、潜在意識教育法講座で次のように語っています(月刊全生)。

…私も子供の頃は弱い方で、よく病気をしました。しかし病気になるのは卑怯だ、仮病はやめようと思いました。病気は自分でなろうと思えばいつでもなれる。痛いとか、痒いとか言っているうちに熱が出てくる。他の人たちは知らないから、熱が出てきたから病気だと思う。病気を必要とする自分の心を観ていますと、仮病が分かるのです。そこで仮病はやめたのです。

…対話の問題を解決するのは、相手を観るということから始めなくてはならない。それには自分と対話して、自分の本当の欲求、いま本当に欲しているもの、得ようとしている処のものをまず明確にしていくことです。

 野口先生が学んだフロイト精神分析学には「病得」という見方があります。患者が病気によって何を得ようとしているか、何を得ているかを見るということで、野口先生も自分を通じてそのことを学んだのだと思います。

 野口整体の潜在意識教育、フロイトユング深層心理学は、それも意識ではない心を扱う無意識の心理学と呼ばれるものです。

 この深い心の世界は、客観ではなく高度な「主観」によって感受するもので、自分の内側に無意識とつながる通路ができると、相手の無意識とつながる通路ができるようになる・・・これが、自分の身心に対して整体を実践してきた先生の経験に基づく、潜在意識教育法の説き方でした。

 また金井先生は、野口先生が「じぃーっと自分を観ている」という思いがいつもあり、それが自分の内面を観る眼になり、相手を観る眼になっていった、と述べています。

「気を集めて観る」眼に見られることで、自分の内が透明になって来て、心がはっきり見えてくることは、私も金井先生の眼を通して理解できるようになりました。

 金井先生は、『「気」の身心一元論』(第一章Ⅳ河合隼雄)で、野口先生が存命の時代と違って、野口整体を学ぶ人が技術的な方法論だけを学んでいていて「魂というものが伝わっていない」ことを憂い、私なりの思いで「魂の心理学」とも呼ばれるユング心理学を援用していると述べました。

 河合隼雄氏は、宗教性というのは「死者の目から自分や自分の生きている世界を見ることだ」(『ブッダの夢』)と言います。ある歌舞伎役者は死んだ師匠がじっと自分を見ているのが怖い、その眼に自分は鍛えられているんだと語ったそうで、日本にはそういう死生観が伝統的にあり、人類学的にも宗教性の原点は「死の側から見ている眼」にあると言っています。

 金井先生は野口先生が亡くなった後、整体協会から離れましたが、その後も「野口先生と同行二人というつもりでやってきた」と話してくださったことがありました。

 野口先生の眼が、亡くなった後もじぃーっと金井先生を観ていて、それが先生の観察する時の「無心の眼」になっていったのだと思うのです。その眼が見ているのは、意識しての言葉や行動や考えではなく、無意識の動作、潜在意識であり、これが気の世界となのだと思います。

 これから整体を実践していく私たちも、野口先生が、また金井先生がじぃーっと自分のことを観ているという「気配」を忘れてはならないと思います。自分が先生の方を見るだけではなくて、先生もまた死の側からこちらを見ているのです。

 最後に、同著から金井先生の文章を引用して括りとしたいと思います。

自身を知り、潜在意識を開拓することで、それまでの自分を乗り越えて行く。元来「自己」という無意識には「可能性」が秘められているのだということを自覚した人間が、他者の指導に関わることができるのです。単に相手を知っていることと、自分を通して深く理解していることは大きく異なるのです。

「人生の明暗」という言葉がありますが、この「暗」に当たるものがないと「明」もないのです。また仏教では「迷悟一如」という言葉もあります。

 いかに、この「暗や迷」を「明と悟」に変えていくかが、修行というものであり、この過程を生きる者が他の人の「暗や迷」に携わることができるのです。

・・・整体の技術だから、体が中心と考えているのは本当ではないと私は思っています。体を整えることの目的は「心のはたらき」にあります。しかし、自分の心を知ることから、他者の心を知って行かないと、相手そのものを指導していくことはできないのです。

・・・師は「自分を治めれば、人は治る」とまで語っています。このような意味における「修行」を通じることで、この世界を深めることができ、人や世界の観え方が深化していくのです。私が言う東洋宗教は、「個人的体験」を通じて普遍的な「原理」を獲得することです。こうして獲得された「心の力(不動の信念)」が「指導力」というものになるのです。