野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

近代化と重心位置の変化―ユング心理学と金井流個人指導4

人間の中心が頭となって、重心が上がった近代

 以前、金井先生は、野口先生から昭和四十年代に聞いたこととして「昔は「体の重心が定まらない」と言って指導を受けに来た人が大勢いたが、今はなく、体の状況を感覚する働きが鈍くなっている」という話をしてくれたことがあります。

 現代の生活においては、いつも重心が上がったきりになっていて、あるべき位置に下がるということがすでになくなっているのです。

 整体では「重心を身体の中心に置く」というのが基本になっていて、野口先生は「体の中心は腰椎の二番と三番の間からお臍の下、一寸の処にかけての線にかかる処に中心があります。…そこで昔から、下腹に力を入れて動作する、下腹に力を入れて技術を修めるというように「万事、吾が腹に有り」と、お腹の力を大事にしました。」と述べています。

これは丹田を身心の中心とする、と言えましょう。「偏り疲労」などと言う時の「偏り」という言葉も「重心位置」を踏まえた言葉です。

 以前、私は『坐の文化論』という本で、日本人は明治維新後、身長が非常に高くなったが、ヨーロッパでも近代初期に身長が伸びる現象があったという記述を読んだことがあります。

 ヨーロッパで起きた近代科学文明ではありますが、それは西洋人の身心にとっても革命的な出来事であったのだと思います。やはり身長が平均10㎝以上も高くなれば、それだけ重心も上がったことでしょう。

 着物で帯を締めることがなくなり、正坐や、しゃがむ動作(例えばトイレ)が生活の中から消えた、などの日常生活の西洋化もその大きな原因ですが、重心を上げることで適応しなければならない時代が近代という時代だった、と言うべきかもしれません。

 近代西洋の身体観は、意識運動の能力を高め、無意識運動を支配し、コントロールしようとする傾向があります。無意識運動は欲望、衝動、などの危険な行動に直結して捉えられ、理性で抑制することが求められてきました。

理性によって、外界の自然も、人間の内なる自然(体、感情、欲求)も支配することができる、支配できるよう理性を鍛え上げる(近代自我の確立)というのが近代的人間観だったのです。そのように頭ですべてをコントロールしようとすれば、自ずと重心は上がってしまうのです。

 しかし支配していると思っていたら、実は「抑圧している」だけで、近代に入って急増した精神疾患や内科疾患の奥には、コンプレックスがあることが明らかとなってきました(精神分析学を応用することで始まった心身医学も1939年に提唱される)。

現代人の頭を中心とした生活と体の鈍り

 野口晴哉先生は昭和40年に、「近頃のように生活が複雑になって頭が忙しくなってくると、異常を感じるということが外に気をとられて鈍くなってしまう。…異常に敏感な状態を保って生活することが今の人には特に大切な体の使い方ではなかろうか。」(『月刊全生』)と述べています。

 現代人の生活は、「考える」・「情報を得る」などの自分の感情や感覚、要求とは離れた客観的基準で物事を決め、頭を忙しく使い続けることが慢性化した「頭を中心にした生活」となっています。

 このように思考が止まないことの奥には情緒不安定があり、不安や焦燥によって頭が静まらないということが多くあります。

 これが身体感覚の「鈍り」をもたらし、体の存在が普段の意識に上らなくなっていることも、近代化が人間に与えた影響として忘れてはならないことだと思います(野口先生は「がん、脳溢血、肝硬変などの近代の病気になる素質は体の鈍りだ」とも言う)。