野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

身体感覚の発達と瞑想的な意識―心身医学と金井流個人指導1

身体感覚が鈍ると感情が分からない

 心身医学では、心身症患者に共通した素質を意味するアレキシサイミアという言葉があります。心身医学者の池見酉次郎医師は、これを「失感情症」と訳し、日本に紹介しました。

 これはどういうことかというと、感情(情動)が起きないのではなく、それを感じ取ったり、自分の感情が言葉にならないということです。

心身症の患者は、自分の身体症状にはある程度気付くことができるが、自分の心理的苦悩や精神的ストレスには無頓着であり、殆ど興味を持たないので気付くことができない」と指摘されているのです。

 そして池見氏は、心身症患者は感情のみならず、身体感覚そのものが鈍っているという「失体感症(アレキシソミア)」という概念を提唱しました。

 恒常性維持機能(ホメオスタシス)は、刺激に対する反応として働くのですが、その刺激を伝える身体感覚(暑さ寒さ・眠気・空腹感・満腹感・疲労感・身体疾患に伴う自覚など)が、鈍い傾向にあるのです。

 身体感覚が鈍いと、自分の状態や要求も分からなくなります。そのため、観念的に捉えたことに過剰に適応したり、さまざまな身体の不調をきたす心身症へと発展していくと考えたのです。

 そもそも、感情とは何かと言うと、「情動」による身体的反応(汗、呼吸の変化、姿勢の歪みや筋の緊張、痛みなど)を身体感覚として感じ、それを心として意識することです。言葉にする、と言ってもいいでしょう。

 たとえば、先に紹介した「からだ言葉」で「胸が痛い」というのは、身体感覚を表現すると同時に、「切ない、悲しい」という感情を表現する言葉でもあります。

 しかし、現代人は身体感覚を心として捉えることが難しくなっています。「痛い」のは「体だけ」が痛いのであって、私の心とは関係がないと思うのです。

 今、からだ言葉が日本語として使われる頻度が減りつつあるそうですが、これは感情を表現する言葉から、身体感覚という根っこ(体とのつながり)が失われてきているからだと思います。

 なぜこのようなことが起きているのか、鈍った身体感覚を目覚めさせ、感情を取り戻すにはどうしたらいいのか。

 金井先生は潜在意識を拓き、それを超える力を呼び起す過程を「拘る・貫く・突き抜ける」と表現し、「真我の発現を妨げる幼時からの不利な条件の本質を明らかにし(=拘る)、そして、そのような自分ゆえに道を求め(=貫く)、而して「本来の自己」にめざめる(=突き抜ける)ことです。」と述べています。

 鈍りの問題を解決することなくしては、心理療法によって意識できない心に気づくことも、それを超えていくことも難しいのです。

 日本より早く近代化が進んだ西洋では、このような問題に対する取り組みとして、深層心理学者の多くが東洋の瞑想法に注目しました。

 日本の「禅」もその一つで、戦後アメリカでの鈴木大拙氏の活動、ヨーロッパでの弟子丸泰仙師による活動によって有名になりました。

 池見医師は後年、「病を治す力は、「病める人」自身の中にあり、私はその力の発現を助ける」という考えに至り、心身医学の理念基盤を東洋の智慧に求めました。そして弟子丸師との交流を持つようになりました。

 弟子丸師は坐禅の際、「ノーマル・ブレイン・コンディション(脳の正常状態に戻れ)」とよく言ったそうですが、頭が忙しく働き思考が止むことがない状態が日常化しているヨーロッパの人には、この「非思量(考えない)の意識」がことに新鮮であったようです。

 野口整体では「頭がぽかんとする」ということを大切にします。これも「非思量(考えない)の意識」で、体の感覚はこの状態でこそよくはたらくのです。

 これは総じて「瞑想的な意識」と呼ばれる状態で、広い意味では「変性意識状態」と言われます。意識といってもさまざまな次元があり、日常普通の意識もぼんやりしたり、明瞭になったりと変化しているものです。

 そして、現代において求められているのは、体に注意を向け、自分の意識状態を自覚するための瞑想なのです。

 こうした現代の事情を踏まえ、金井先生は「瞑想法」としての野口整体という説き方を構想していました。長くなりましたので、次回へ・・・。