野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

対立と支配を超える―ヨーロッパにSeitaiを伝えた津田逸夫氏 2

病症の経過と活元運動 

『「気」の身心一元論』が出版された2011年は、東日本大震災(3月11日)の起きた年でした。

 野口整体と西洋医学1でも引用しましたが、同著 はじめに で、金井先生は整体指導者という立場から見ると、おそらく関東大震災、第二次大戦の頃より、「医薬への依存性がいたずらに高くなったこと」が目についたと述べています。

 野口整体は、病症は「自分の精神で、正気のまま自然に経過すべきことを自分に教え、自分で耐えることが大事である。」(野口晴哉『月刊全生』)という立場であることはつとに知られています。

 これは何が何でも我慢しろという乱暴な意味ではなく、その時、その人の病症の本質を見きわめた上で、経過を待つということです。活元運動は、その心と身体感覚を養うための行でもあるのです。

 金井先生は『「気」の身心一元論』(序章)で次のように述べています。

自然治癒力に信頼を置く野口整体は、「潜在生命力の喚起」を目的とし、個人指導と、活元運動という行法、「全生」思想によって成り立っています。

・・・野口整体では、治療・治病という言葉は使われず、整体指導者は、自然治癒力が現れるよう相手の「潜在生命力の喚起」を手伝うのです。「人が治る」ということは、いかなる場合においても、自身に具わっている「生命のはたらき」に依っているからです。このため、活元運動を行ずることが指導の中心となります。

 このような野口整体の思想と行法を自分のものにしていく上で、障害となるのが病症と対立する心です。

 これは「自分の体は無能無力で耐えず何かで守っていなくてはならぬ」(野口晴哉)という思い込み(体を物として捉えている)や、これまで受け入れて来た「薬を飲めば治る」という暗示の影響、そして「もっとひどくなるのでは」という得体のしれない「恐怖・不安」によって病症を対立的に捉えることが多いかと思います。

 こうしたことの背景に、科学的な見方が深く影響しているのです。

 また病症がなぜ起きたのかということがわからないと、突然身に降りかかってきた災難のように感じますし、外敵(たとえばウイルスなど)から自分が侵されているような気がしてくるものです(こういう事情で本当に病症の経過が滞るようになることが多い)。

 これは病症が起きる必然性、多くの病症は、身心が不自然な状態から自然な状態へ向かおうとする時、起きるのだという理解と経験知が不足していることに原因があるのです。

 そういう事情で、金井先生は、病症に至る最初のショックとして「不快情動」を捉え、それが偏り疲労となり、潜在意識下で「不快情動」が続いていることで体の自然(恒常性)が損なわれ、病症が始まること。

 そして対話と愉気による「気づき」と活元運動を通じ、気の滞りが流れていくことで身心が統一し、そして正常化することを、個人指導で教えるようになったわけです。

 ここで意味する「身心が不自然な状態」というのが、体から心が離れている、つまり心身二元の状態にあるということです。自分の潜在意識化で動いている感情(情動)が意識化できないことで、分離が起きているのです。

 心身二元と言う時の「心」は、意識(理性・思考するはたらき)が主体です。この意識に偏った心が、「病症」いう都合の悪いものを勝手に引き起こす、「体という自然」を支配しようという発想が西洋医学にあるのです。

 そういう態度では「病症」の全体性、意味というものは見えず、症状を対立的に捉え、支配し抑え込むにはどうすればいいかを考えるだけになってしまいます。

 野口先生は、活元運動(の誘導)は、「「人間の裡に健康を保っていく力の在ることを立証する方法の一つである」(『人間の探究』)と言いました。

 自然治癒力がはたらき出すために必要な「頭がぽかんとする」という身心の状態になること、体という自然・生命の自律的な動きがあることを実感し、その動き、はたらきを信頼する心の態度。そしてその自律的はたらきそのもの(錐体外路性運動)を訓練するのが活元運動という行なのです。