感受性を高度ならしむる―野口整体と近代科学の認識の相違
東洋の伝統と野口整体
学問的に言うと、人間の意識の作用には、「感覚・思考・感情」があるとされています。前回はこの中の「感覚」についてお話したのですが、近代科学で観察の主体となったのは「視覚」でした。客観的(=主観を排除して)に思考し、物を見るという理性的な態度が科学的態度というものです。
前回まで述べて来た「正体・正心・正気」というのは「身体性」というもので、身体性を正すことで正しい認識ができる、というのが東洋の伝統でした。
東洋の正しい認識というのは、科学的・客観的な認識とも違う、物事をありのまま観る「正しい主観」ともいうべきものです。河合隼雄氏は東洋的な現実認知について、次のように述べています(『宗教と科学』。
東洋への志向
…ニュートン=デカルト的世界観は、男性原理を極端に推しすすめ、主体と客体、物質と精神などを明確に区別し、そのような区別された事象を研究することによって、自然科学を生み出してきた。これに対して、東洋の知は、そのような区別をあくまで明確にせず、全体としての認識を重視する。しかし、ここで大切なことは、そのような女性原理に基づく知においては、意識の在り方が大いに関係してくるのであり、言うなれば、(西洋の近代自我を男性の意識と特徴づけるとして)、「女性の意識」とでも名づけるべき意識状態の、修練による達成が必要なのである。そして、この修練においては何らかの意味での身体的な修行と結びついていることを特徴としている。そもそも「女性の意識」においては、男性の意識のように心と体が完全に分離されていないので、身体の在り方と意識の状態は不即不離の関係にあり、身体を通じて意識の在り方を変えてゆくところが重要なのである。
坐禅や瞑想、ヨガなどの修練を経て鍛えられた意識は、西洋近代の自我とは異なる現実認知をすることになる。そこに認識されるものは、西洋の自我が認識の対象外として捨て去ったもの、つまり、一般に霊とか魂などと呼ばれてきた存在である。
金井先生は文中で「一般に霊とか魂などと呼ばれてきた存在」と述べていることは、野口整体では潜在意識・無意識・気に相当する、と述べています(未刊の原稿による)。深層心理学での「心」も、これに準ずる深い領域の心です。
こうした意識状態で観察するのが整体指導で観る身体、「気の身体」というものです。また金井先生は、野口先生はこのような観察のあり方を「注意を集める」(=身心統一によって感受する)と表現したのだと言います。
仏教にも、儒教にも、東洋宗教の思想基盤にはすべて「正体・正心・正気」という身体性があり、それに基づく認識がその内容なのです。
金井先生が「野口整体は東洋宗教の伝統を受け継ぐ思想と行法」と述べる時、このことを意味しており、次のように述べています。
師野口晴哉が提唱した「整体」、即ち「感受性を高度ならしむる」ことは、東洋宗教が求めて来た「正体・正心」の現代的な顕れなのです。
自分が今、認識している現実は、今の自分の身体性(感受性)に基づくものであって、より高度な認識へと変容していくことが可能である・・・とは、簡単に言ってしまえば心が成長する、成熟するということでもあります。
しかし、科学的な現実認識というのは理性的、客観的なものですから、どこでも、だれでも一様に、普遍的に捉えられることを認識の対象としているのです。たとえば量や大きさ、あるいは値段!など数値で表せることが尺度となっています。
本当は、客観的認識というのは「対象を狭める」ことであって、現実には「ある」のに、「ない」こととして切り捨てていることも多いのです。
しかし、それが唯一絶対の現実認識だ!と、日本人は特に戦後、思うようになってしまいました。これは主観を共有するために必要な「身体性」(正体・正心・正気)が失われたことが大きく関わっています。
そして世界的にも、物の世界の尺度、思考様式だけでは解決できないことが人間にはある、その世界観を啓くために東洋の智が求められるようになったのです。
次回はいよいよ「共通感覚」です。がんばります。