野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

自分と世界とのつながりと感覚―共通感覚 1

「自分にとっての意味」とは何か

 前回、河合隼雄氏の「関係性の回復」についての文章を引用しました。河合隼雄氏はそれに続き、次のように述べています(『心理療法序説』)。

1 科学の知

「関係性の回復」はどうしてなされるのか。これに対して中村雄二郎は、われわれは科学の知のみではなく、「神話の知」を必要とする、というのである。中村は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれによって構成されている世界とを、宇宙的秩序の内に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求であろう」と述べている。

 これから引用する中村雄二郎氏の名前が出てきましたが、「神話の知」というのは、自分が今、感覚を通じて捉えている「現実」の持つ意味を、世界とのつながりの中で捉えることです。

 この文章の中では、ユングがアフリカに行った時、朝日を拝む部族の人に、昼間の太陽を指して「あれが神か」と聞いてもだれもうんとは言わない。その後、ユングは朝日が昇る「光の来る瞬間が神である。その瞬間が救いをもたらす。それは瞬間の原体験であって、太陽は神だといってしまうと、その原体験は失われ、忘れられてしまう」と気づきます。

 少し前に、津田逸夫氏は、「ヨーロッパ事情」(月刊全生)で「我と物との対立」「人間は自然を支配するものである」という西洋的世界観の二つの特徴を挙げていました。「我と物との対立」というのが対象化であり、切断があるということです。

 日本語のニュアンスで「対立」と言うと情緒的に捉えてしまうのですが、感情を介さない関係と捉える方が良いでしょう。

 しかし、当時のアフリカの部族には太陽というものを、自分の内的な感動とは関係なく「神」とか「神ではない」という捉え方をする習慣がなく、自分が神を感じた時、太陽は神である!と言うのです。そして河合氏は「そのような人が「孤独」に悩むことはあり得ない」と述べています。

 では、つながりを持ったものとして対象を捉えるとはどういうことなのか。それがこれからお話する「共通感覚」というテーマです。

 哲学者の中村雄二郎氏(一九二五年生)は、科学の客観的観察において「見るものと見られるものが引き離される(=対象化)」ことについて次のように述べています(『哲学の現在』)。

二 見る・聞く・触る

・・・見られるものが見るものから引きはなされたことは、認識の客体が主体から分離されたのだとも、客観と主観とが分裂したのだともいいかえられる。見られるものは見るものから引き離されて対象化されるとき、まさに物、つまり物体になり、他方、見るものは逆にもの性を失って精神になるのである。そして、見られるものは物体になることによって固定化されるとともに、無限に分割、分析されうるようになる。

・・・このような考え方に立つ近代哲学と近代科学は人間の知の拡大、精密化、そして技術の進歩に大きく貢献したが、その反面、見られるものが見るものから引き離されたため、そのような知の世界では見られるものはすべて物体化され抽象化される一方、見ることは、そのように見られるものを物体化し支配せずにはおかない、冷やかなまなざしとなった。この方向で赴くところ、人間同士の関係も、相互に見るものが見られるものをまなざしによって物体化させ、支配しようとするということになるわけである。

 私たちの目には、いつの間にか見るものを「もの」として見、支配しようというまなざしが身についている、という指摘は、鋭い!と思います。それが賢い物の見方だとすら思っているかもしれません。

 しかしそのような目が見ている世界は、自分とは何の関係もなく動き、時間は流れる「自分にとっての意味を見出せない」世界です。他人に価値を認めてもらったり、量的な尺度で価値を決めたり、自分の感覚、心ではないものが「意味を与える」のです。

 アインシュタインが「自分の目で見て、自分の心で感じている人は少ない」と言ったのも、こういうことなのだと思います。

 金井先生が「野口整体は科学ではない」と言う時、どういうことを言わんとしているかと言うと、「科学的見方では見えないもの、捉えられないことを対象にしている」という意が中心なのです。科学の弊害について述べたとしても全否定しているのではありません。

 今日はここまでにして、次回はつながりを取り戻すために再認識されるべきは「触覚」である、というお話に入ろうと思います。