近代科学の「見る」、野口整体の「触る」―共通感覚 3
近代科学の「見る」
中村雄二郎氏は、近代と近代科学の発達、そして「見る」ことについて次のように述べています(『哲学の現在』)。
二 見る・聞く・触る
望遠鏡や顕微鏡が発明されたのも、人間が本格的に地理上の発見を行なうようになったのも近代はじめの西欧であったが、西欧近代は人間がとくに見ることに、それも未知のものをできるだけ視野に入れ対象化して見ることに情熱をそそいだ時代であった。
近代科学と科学的思考の発達がそのような情熱の所産であったことはいうまでもない。
…近代世界のなかでは、一見したところいかにも見ることが重視され、大きな意味をもっているようであるが、その見ることはかなり特殊なかたちのものであった。見るものと見られるものが引き離され、そのために五感の他の諸感覚や運動感覚、筋肉感覚などによる協働が不可能になって視覚だけが独走したものであった。しかし、視覚だけが働くこと、独走することと見ること、よく見ることとはちがう。よく見ることは、視覚を中心とした諸感覚の協働(統一力)による知覚なのである。
人間が客観的に対象を観察するという「目」を持つようになったことで発達したのが近代科学ということですが、それは、前回の医師の話にあったように、現代医療が「画像診断」という方向へ進んだことからも伺えます。
それは本当に「見る」ということとは違う、見るものが一方的に相手を観察するという、関係性を「切断」した形での「見る」であって、視覚そのものが、他の五感や身体感覚と「切断」されているのです。
野口整体の「触る」
続いて中村氏は「触る」について次のように述べています(『哲学の現在』)。
二 見る・聞く・触る
…視覚の独走に対して、他の五感や運動感覚、筋肉感覚などの働きの回復をめざすことは大いに必要である。五感のうちでとくに触覚は、視覚ともっとも対蹠的(註)な直接接触の感覚として、見るものと見られるものの分離状態をなくす上で大きな役割をもっている。聞くものと聞かれるもの、嗅ぐものと嗅がれるものとなると分離は、いっそう少なくなるにせよ、それでもありえないわけではない。しかし、触るものと触られるものとの間では、主客を対立させる分離は起こらないからである。
(註)対蹠的・・・全く正反対であるさま。
金井先生は、「触るものと触られるものの間では、主客を対立させる分離は起こらない」という言葉に、「大いに感ずるもの」がある、と述べています。これは野口整体の観察が、眼で見るのみならず、触れることによっても行われることによるものです。
前々回紹介した医師は、子どもの頃、医師がお腹を触診するだけでお腹が痛くなくなることがあって、「不思議だなあ」と思ったことがあるそうで、私も子どもの時、こんな経験がありました。
老先生がお腹を触診しながらいろいろ細かく問診し、子どもなりに一生懸命答えていたら、なんだか不思議に気が晴れてきました。すると先生が不意に「今、痛い?」と聞き、私が「・・・痛くない」と言うと、「今日はこれで終わり。お薬は、なし!」と言い、帰されてしまったのです。今思うと、「心身症的腹痛」という診断と処方ですね・・・。心因も思い当たります。
老先生は確信犯ですが、科学的であるべき西洋医学の先生も、触診をすると「うっかり」愉気をしてしまうことがあるようです。触れるというのは「見る」とは次元の違うつながりが生じるものなのです。
金井先生は、「西洋医学から人の心が離れる傾向が出てきたのは、投薬医療に対する不信もあるが、臨床で手が使われなくなってきていることが裏にあると思う」と話してくださったことがあります。
「目」だけで「手」が使われなくなったことで、病む人が真に求めていることに応えない医療になり、言葉にならない不満が潜在化しているのです。
同時に、触れることがなくなったことで、医師の「人間を相手にする」という感性が衰退し、医療が人間そのものからかけ離れてしまう方向へ向かっているというのです。
長くなりましたので次回へ。