野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

触覚と「気」の感覚―共通感覚 4

触覚と「気」の感覚

 中村雄二郎氏は「触覚」と共通感覚について、引き続き次のように述べています(『哲学の現在』)。 

二 見る・聞く・触る

 触覚は、他の諸感覚とくに筋肉感覚や運動感覚の助けをえて、私たちがものを摑み、とらえる働きをし、このものを手でとらえるということが知覚したり理解したりすることの原型になる。この知覚や理解を含めてのとらえること、把握は一つの全体をとらえることであり、それに応じてとらえる方でもなにか個々の特殊感覚によるのではなく、諸感覚が出会い統一して働く全体的な直観、つまり共通感覚によるのである。共通感覚の一部としてとくに触覚は諸感覚を結びつける働きをもっている。事実、セザンヌ以来画家や建築家たちが近代世界のなかで失われた全体的な感覚を回復するために、諸感覚を統合するものとして注目したのはとくに直接接触の感覚、つまり触覚であった。そして触覚のもつこの諸感覚を統合し、ものとものとを結びつける力は、私たちが宇宙(コスモス)そのものと一体化しようとする願望の一つのあらわれであるともいえるのだ。

 したがって、見ることが冷やかなまなざしになるのは、見られるものが見るものと引き離され、見ることのなかで見る働きつまり視覚が部分化し、共通感覚という基礎を失ったからであって、共通感覚をとりもどすならば、他の諸感覚の十全な協働によってものを親密な関係のもとによく見ることができるのである。 

 生後3~4カ月の乳児に、ハンドリガード(hand regard)という発達過程があります。まだ寝たままの赤ちゃんが、自分の手をじっと見つめたり、動かしたりなめたりして遊ぶことです。これは自分の体の存在を認識し、動きや感覚を学ぶ最初の段階で、こうして諸感覚を統合し脳が発達していくと言われます。やはり、手を通じて自分と身体、そして世界と出会うのですね。

 金井先生は、『「気」の身心一元論』で、この文章の後に次のように述べています。

野口整体の指導で、眼で観、手で人に触れることは、「気で気に触れる」「気で気を観る」と言い、「気の感覚」は単なる「触覚」以上のものがありますが、中村氏の説く「触覚」は、野口整体の「手で人を捉える」ことの説明として十分なものを感じます。

 湯浅泰雄氏は、気は「セネステーシス(身体感覚)の底から顕現してくる一種の力感として、直観的に感得される作用」(『気・修行・身体』)であると述べています。

 これは共通感覚と非常に近い言い方です。物質的な触感(硬い、柔らかい、温感など)のみならず、手に注意を集め、全身を一つにして触ることで、共通感覚的にいきおいや気の動き、要求の方向性を捉えることができるのです。指導はそれに沿って進みます。

 また、先生は指導で手を使うこと(触れること)について、

「観るということにおいても、相手と自分だけになって、注意が集まるとかなりのことが分かるが、相手を感じる時、手を使わなかったら捉えられるものが違う。

 身体に触れると、硬張りや柔らかさの中に、相手の感受性というもの、何かに恐怖している、安堵していることが触覚的に分かる。」と話してくださったことがありました(近藤ノートより)。掌から、言葉にならない心を、言葉にならないまま(感覚として)感受することができるのです。

 そして、「手指、手の動きがなめらかになること、手を使いこむことは、脳のきめ細かいはたらきを促し、感性を発達させ人間を成長させる。」と言い、野口晴哉先生の次のお話を教えて頂きました(月刊全生)。

人間の頭が今日発達したのも手を使う為であるといってもいい。

だから豚がいよいよ豚らしくなる為には、豚の鼻をいよいよ鋭くする。豚の鼻を鈍くしてしまったらもう支離滅裂である。豚の鼻が鋭くなればいよいよ豚らしくなる。人間は手の感覚が敏感になるほどに行動は人間的になる。

 未刊の原稿では、金井先生はこの「共通感覚」についての内容の最後で、先生が初めて受けた講義の時の野口先生の最初の言葉「背骨は人間の歴史である」を引き、「背骨に触れて観ることで、その人間の歴史をも観ることができるのは、眼のみならず、熟達した人間の手によるものであることを、この言葉は教えています。」と括っています。

 中村氏が「触るものと触られるものとの間では、主客を対立させる分離は起こらない」、「触覚のもつこの諸感覚を統合し、ものとものとを結びつける力は、私たちが宇宙(コスモス)そのものと一体化しようとする願望の一つのあらわれ」という主張は手で人を観る野口整体の観察に通じ、鈴木大拙氏の禅的な見方にも通ずる、と金井先生は考えました。

 ここについては、鈴木大拙氏の内容に入ってから述べたいと思います。