要求と行動を一つに
裡の自然(野口晴哉『月刊全生』)
近頃〝自然〟ということが盛んに言われています。つまり、山へ行けば自然であるとか、木が在れば、それで自然だとか言っているが、そうではない。一人一人の人間の生き方が体の要求に沿っていくことが自然な生き方だ、と言わなくてはならない。
そういう意味で、山に登ったからといって自然に近付くわけではない。眼をつぶって、自分の意識をなくして、もっとその奥にある心に触れるとか、自分の無意識の動きに生活を任せる方が、却ってその中に自然というものがある。
だから外にいろいろ求めるよりも、自分の裡の自然を先ず掴まえだすべきで、それには活元運動は近道です。
野口整体の基本に「要求そのものが生命であり、要求と行動を一つにさせるということが体力発揮の根本的な問題である」(月刊全生より)―という考えがあります。
自発的であるかどうか、というのは、要求に沿った行動、生活であるかどうかということですが、この裡から発する「要求」を感じるのも敏感にならないと感じられないものです。
そして要求は、体が偏ると過剰になり、要求を充たそうとする手段が歪むこともあります。また要求に即してすっと行動する、というのも心と体が分離していたら難しいのです。
この要求と行動の間にあるのが「情動」と言って良いでしょう。情動による硬張り(感情の滞り)があると、ちぐはぐになったり、行動にならなかったり、違うことをしてしまったりします。滞りも引っかかりも「何もない」身心であれば、要求と行動は一つになっていくのです。
野口先生は、「脱力」について次のように述べています(『偶感集』)。
脱力
体の力を抜きなさい。筋を出来るだけ弛めなさい。体の力を発揮する第一の方法です。
力を入れ筋を硬くしないと、体力が発揮されないと思うのは間違いです。丸木橋を渡る人や、清書をしようとする人を御覧なさい。固くなっている間は、本来の力を発揮しません。
恐怖や驚きのまま固まってしまっているような硬直した状態は、決して人間の自然の相とは言えません。
筋を弛めると、自ずから下腹で呼吸するようになるのです。
金井先生はこの文章を、体の力を発揮するのに必要な「丹田呼吸のための脱力」として引用しています。そして『「気」の身心一元論』第二章冒頭では次のように述べています。
「下腹で呼吸する」身体を、かつては「自然体」と呼んでいました。この「人間の自然の相」を保持する上で「脱力」が肝要なのです。活元運動は、脱力によって「人間の自然」を保つための行法です。
活元運動とこれを円滑にする正坐を通して、全力を発揮することで健康ならしめる心と体のあり方「上虚下実」を身に付けていくのです。
こうして、無意識に対する信頼を培うことができます。
ことに野口整体金井流では、無意識化した情動による硬張りを弛めるために、中心となる行法です。
次回から、2007年にMOKUという雑誌に連載された金井先生の野口整体についての記事から、「自発的に生きる」を取り上げ、活元運動のお話をしていきたいと思います。全文は気・自然健康保持会HPをご覧ください。
これは未刊の原稿で活元運動の章に取り入れられた内容です。長くなりますので、今回はここまでとし、次回へと続きます。