野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体が「禅」であるとは―禅文化としての野口整体Ⅰ 2

随所作主、立処皆真

 今回は、禅文化としての野口整体Ⅰ 16頁から始めます。

 金井先生は見出しにつけた禅語「随所作主、立処皆真」という言葉が好きでした。

 個人指導の中で、不快情動が起きた時から気が転換せず、その状態がずっと続いていることが焦点になるわけですが、そういう時は主体性が隠れてしまいます。

 その出来事以来、情動が鎮まらないことで心が捉われたままになっていて、自分の心が「今」に向いていない。そういう時には腰に力が入らず、意欲も集中力も低下していますし、その時起きた不快感が先に立ち、感じ方も行動も、不自然で偏った状態になってきます。

 要求がよく分からなくなり、頭の中が不明瞭になってくるのです。抵抗力(免疫力)も下がってくるし、活元運動もすっきりとはいかなくなります。体の力が発揮されない状態になるということです。

 成育歴の問題というのも過去に形成された「感受性(トラウマ・体癖を含む)」によって、現在の事物を受け取っている」ことで、今の人生に適応できていないという問題なのです。このような「心の癖」が活き活き生きる上で支障となっているわけです。

 このように、体と心の方向性を支配する力を持った感情の滞り(コンプレックス)というのは、言葉にならない、訴えられないもので、本人が訴えることのできる感情にはそれほどの力はありません。

 それを観てとり心のやり取りをすることで、本人に気づきが起こることで捉われが外れます。そうして気が転換し、体も心も切り替わることで、より高度な感受性となって再適応「今」に適応していけるのです。

 禅で目指す心の状態へと近づいていくのが「感受性を高度ならしむる」ことなのだというのが、先生の説く「野口整体は禅である」の意味であったと思います。

 前に戻って、一 14頁には、鈴木大拙『禅と精神分析』からの引用が入っています。この二つ目の引用文中最後に「〝自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ〟ということである。」という文章があります。

 これは一人の人間の中での話として書かれていますが、先生の個人指導における観察では、「主(見るもの)」が先生、「客(見られるもの)」が指導を受ける人であり、主客が一体となって自己を知ることが、指導の中での気づきと言えると思います。

 二 1(16頁)の最初で金井先生は次のように述べています。 

私が初めて出席した師野口晴哉の講義第一声は、「背骨は人間の歴史である」でした。野口整体の観察の中心となる背骨の観方に深くなりますと、「背骨は心(潜在意識)が現れているものである」と解るようになります(背骨には、その人がこれまで生きてきた心の歴史が表れている)。 

 本人も意識していない「私」を観る、というのが整体指導での観察であり、最初の野口先生の講義で、先生は自分の道がはっきり方向づけられたのだと思います。

 この「背骨は人間の歴史である」という野口先生の言葉は、「触覚と「気」の感覚―共通感覚 4」でも紹介しました。

 野口先生は「自分の中味が拓かれていく(修行によって)と、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくる」(『愉気法1』)と言います(自分のことから始まる野口整体、です)。

 体を通して観ていることも、その観方も、近代科学とは異なるのが野口整体なのです。