野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

体の智慧は錐体外路系にある―禅文化としての野口整体Ⅰ 3

「私の体は、私の頭より賢い」

 今回は、禅文化としての野口整体Ⅰの二 3(19頁)から始めます。

 「私の体は、私の頭より賢い」という見出しは、金井先生が個人指導を受けていたNさんの話を聞き非常に喜んだことからつけられました。

 小さな時から優等生だったNさんは、先生の指導を受けるようになって、人間関係や人生における、考えても頭では解決できないさまざまな困難を体の智慧で乗り越えていくことを学んできました。そしてこれまでを振り帰り、無意識と出会った喜びを表現した言葉だったのです。

 Nさんが知った錐体外路系にある「体の智慧」とはどういうものかがこの指導例の主題です。なおこの内容は未刊の本の原稿となっており、ここにはない内容を補足しながら進めていきます。

 教師であるNさんは妊娠初期に学級担任をすることになり、想定外の事態にショックを受けました。

 「肝をつぶす」(びっくりする)というからだ言葉の通り、Nさんのびっくり情動は胸椎8・9番(肝機能に関わる椎骨)に残っていたのですが、Nさんは指導を受けるまでこの出来事を忘れていたようです。

 ちなみに二 2には「不満・怒り」と肝機能系のお話がありますが、椎骨が何番かで情動の種類を判断するのではなく、椎骨に触れて感じる「気」によって、どんな情動かを感受するのです。

 体がこうなったままだと心理的にもショックが抜けない状態なので、想定外の状況に適応していくのが難しく、体調不良が続いていました。しかし、頑張り屋のNさんは「毎朝起きるのが辛く、出勤もしたくなかった。しかし、休みたくても仕事があるから休めない、と頑なに考えていた」と言います。

 Nさんは「もともと妊娠中は、ぼんやりしている時期なのだから、難しいことには首をつっこまない方がいい」と分かっていながら、「なぜか自分から飛込んでは失敗して落ち込むことをくり返した」そうです。

 金井先生はこの状態について、「不整体であることから身体の中心である腰が使えないことが原因。整っていると出たり引いたりの加減ができる」と解説しています。

 寝る前に活元運動をしようとしても、できなかったり却って気分が悪くなったりで、Nさんは身心共に追い込まれてしまいました。そして指導の日が来たのです。

 教材では、情動による身体の硬張りが錐体外路系のはたらきを妨げることについて述べられています。上体の硬張りによって腰が入らなくなることで、このような状態がもたらされるのです。

身心がこの状態での生活は、頭と腰がつながっていませんから、自分の思いと行動がちぐはくになってしまいます。まだ小さな娘に苛立ちをぶつけて自己嫌悪に陥ったり、休みたいという要求を感じても頑なに否定したり、という状態です。要求と行動が一つになっていない状態、「不整体」ですね。

 また、錐体外路系というのは運動系(身体の運動に関する神経系)であり、医学的には運動系と自律神経系のはたらきを総合的に見るということはあまりないのですが、野口整体では体運動全体として、一つのものと捉えます。

 そして、「不整体」になって行き詰ってしまった時は、個人指導で金井先生と「主客一体」となり、最初のショックの時点に戻って自分を取り戻し、心の流れを取り戻す。そして情動が流れていくことで、新しい自分、高度な感受性で再適応し、意欲を取り戻していくことができるのです。

 理解力のあるNさんは、自分の心の癖に気づき、身心が不調和になった時のパターンも学習したようです。こうしたこと全体が、「体の智慧」、錐体外路系の力というものなのです。

 二の最後に、鈴木大拙氏の引用があります。そこには、科学者は「何事を述べる場合でもそれが客観的に評価され確認されない限り真実であり得ない。単に主観的とか、個人的に経験されただけでは真実ではない、という考えである」とあります。

 指導例のすべては、この時一回限りで再現不能なこと、そして金井先生と指導を受ける人の間の「真実」であって、客観的・普遍的な事実ではありません。

 しかし「生きた生命」というのは、科学的に捉えられるものではない、「科学の網の目」からこぼれ落ちるものであり、それを捉えるのが「禅の智」、野口整体なのだと金井先生は考えていたのです。

(補足)

 個人指導で「身体を整える」ことについて、野口先生は次のように述べています(『月刊全生』)。

 大人の天心

…技術中心から活元運動中心になり、それから今度は教養(註)の面に主力を注ぐようになりました。しかし技術を知っていないと指導の役をできない場合が時々あるのです。相手と一緒になって心配していてもしようがない。そこでそういう弾力の無くなった体に弾力を回復する、あるいは弾力のない心に弾力を回復させるための方法や技術も要る。自分では行き届かないところがたくさんにあるから、整体操法ではそういう面を受け持っているのです。

(註)病症とは、また「整体とは何か」などの思想。