野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

東洋宗教を基盤とする野口整体―禅文化としての野口整体Ⅱ 4

「修行」とは何か

 今回は後編一 1 東洋宗教を基盤とする野口整体(20頁)から始めます。ここからは神道、仏教(禅)という、野口整体の基盤となった東洋宗教についての内容に入ります。

 野口晴哉先生の書には「自彊不息」という印が押されています。これは中国古典『易経』の「天行は健なり。君子以って自彊息まず。」という言葉から取られたもので、その意は「指導者たるもの、日々修行を怠ることなかれ」という戒だ!と金井先生から聞いたことがあります。

 2004年『病むことは力』出版以後、金井先生は塾生や指導に来る人に「修行」と言っても、言わんとすることが通じないことを嘆き、「修行とは何か」を明確に説くため、2007年から『気・修行・身体』という湯浅泰雄氏の本を読み始めました。

 西洋のキリスト教では「信仰」が宗教の中心ですが、東洋の宗教は「修行」がその中心にあります。

 東洋宗教が求めているのは世界観や認識・洞察、覚醒という「心の変容(悟り)」で、自分自身の内側に神聖なもの(仏性・神性)があると気づくことが目的となっています。キリストだけがそれを実現したと考えるのではなく、人間には皆そうなる可能性があると考えるのです。

 そして生きている間に、「瞑想」を基とする修行を通じて「無心・天心・清明心」と呼ばれる心の状態に至り、それを少しずつ深めていきます。

 湯浅泰雄氏はユングに影響され、修行者の体験内容を深層心理学的に理解しその意味を考え、現代における意味を研究した人です。氏は次のように述べています(『共時性の宇宙観』)。 

 人間の生き方として、ゆがんだ方向にいっている場合に、それに対して無意識が警戒信号を出す。無意識の中には、生きるための本当の価値なり目的なりを目指す働きがそなわっていて、意識を背後から動かしている。

 だから、それを発見し、それ(金井・裡の要求)にしたがっていけばいいということになります。もともと無意識の中にはそういうふうな目的論的機能がそなわっているのだ、というのがユングの考え方です。

 私たちは、自分の人生について、時として自分はいったい何のために生きているのだろうかと思うことがあります。「何のために」というのは「どんな目的のために」ということです。そういう生の目的への問いかけに答えるのが自己の無意識から呼びかけてくる「声」である、とユングは考えます。

 目的論的機能などというと難しく聞こえますが、それは人間の潜在的な本性がわれわれにとって自然な生き方を示すはたらきを言います。そういう見方は、たとえば仏教で人間にはすべて清らかな「仏性」がそなわっているというような考え方に通じます。そこに潜在している働きが活動をはじめると、心身関係のレベルでは健康を回復し促進するような働きを示してくるということです。

 ユングが東洋宗教の修行法に興味をもった理由はそこにあります。それは無意識の根底に潜在している本性を自覚し、それが活動しはじめるようにする訓練なのです。

 

 そして、東洋宗教の修行では、無意識の声が聴こえなくなる(無意識とのつながりが切れる)、生き方の方向性が歪むのは「不快情動(怒り・恐怖など)」の滞りが原因だということが共通認識となっています。

 神道は「じねん(自然)」という生命の秩序形成力を「神」としており(鎮守の森はその象徴)、「清明心」となることで神と一つとなるのです。

 霊動法では、霊動が出ることで神と一つになるとされ、その前に禊をし、穢れを祓います。穢れとは清明心を乱す「邪気」ということができます。

 一は、こうした「修行」の伝統が野口整体の中にも流れており、活元運動も「修行」であるという先生の考えが基になっているのです。

 金井先生は、上巻第一部第二章野口整体の生命観と科学の生命観― 東西の自然観の相違より生じた生命観の違い(自然治癒力の有無)の最後で、次のように述べています。

仏教の中で「悟りを開く」ことを専一とする禅は、「一日坐れば、一日仏に近づく」というもので、生きながらに「成仏」することを目指すものです。自然と融合する東洋の連続的自然観における諸宗教の身体行は、自分の裡にある「神性(仏性)に目覚める(=神になる)」ことです。

 近代科学と東洋宗教という行為は、「神を知る」と「神になる」という相違であり、それは、神が自分の外にあるか、裡にもあるか、という違いなのです。