現代の体育の問題と活元運動
1969年の「本来の体育」の約四十年前、野口晴哉先生は体育の問題について変わらぬ内容を述べています。補足としてお読みください。
(原文は旧仮名遣い、ブログ用に改行を増やしました。『野口晴哉著作全集 第一巻』全生論 一九三〇~一九三一年)
二
意識は総てではない。従って意識を基礎として組織した現代の体育的運動は、悉くその出発点に於て誤っている。
意識を基礎としている結果、随意筋、不随意筋の区別を生じ、総ての体育的運動は皆随意筋の運動にのみ片寄って終った。而して随意筋は発達したが、之を養うの力に乏しいという結果を齎らした。
又意識に捉われた結果は、生の要求する運動の適度を無視して、万人に同一の形式を強い、又人体の中心を忘れて胸に重きを置き、腹を忘れ、胸を主体とせる形式にのみ走っている。
之が為、その目的に背馳(はいち)して却って害を心身に与うるの悲しむべき滑稽を演じつつある。
意識を基礎としての運動は、動物性神経を過敏ならしめ、植物性神経を弛緩もしくは過敏に導くの結果、意識のみ過敏に働き、感情は麻痺して活動鈍く、一般に思想が唯物的に傾き、延いては国家国民の行詰りを招来するに至る。
自分自らが努力して自分を狭い意識の世界に追込み、徒らに苦悩に呻吟しているが如き状態にある。思想善導の声高しと雖も、心の働く道は神経系なれば、神経能力を正しくせねば、心が正しく働く道理なし。思想の悪化も心身の病弱も、故なきに非ずである。
予は声を大にして、体育改造を高唱し、世人の覚醒を促さんとするものである。
予の主張する体育は、人体放射能を基礎として行う運動によるもので、意識と形式を離れて、各自に適応するだけの運動を為し、呼吸と心との調和を図り、腹腰の力の一致せる処に人体の中心を認める。
而して完全なる心身を得んとする。随意筋、不随意筋の区別もなければ、神経系の発達に違和不調を来すことなく、真の彊心健体を獲得し、自然健康を完全に保持して、茲に全生の実をあげることが出来るのである。
(註)
植物性神経・・・自律神経
予の主張する体育・・・活元運動
腹腰の力の一致せる処・・・丹田