脱力を目的とした活元運動―禅文化としての野口整体Ⅱ 7
活元運動の生理学的理解のために
東洋的身体論を研究した哲学者の湯浅泰雄氏は、東洋の身体行が身体の訓練を通じて心の力を引き出そうとしているのに対し、西洋は身体訓練を通じて心を高めるという考え方がないことに注目しました。
そして、西洋のスポーツが考えているのは、大脳皮質←→外界感覚・骨格筋(運動神経と運動感覚神経)の範囲だけだと述べ、自律神経系が支配する無意識運動と情動(意識以前の心)のはたらきは考えられていないと指摘しています(『気とは何か』)。
(註)最近、競技スポーツでも高地トレーニングなど心肺機能を高める訓練をしますが、競技中の負荷に耐えるための過酷なもので、心肺機能を随意にする訓練ですので、機能を高めるといっても生命の全体性や健康とは切れていると思います。
野口先生は、「随意筋には錐体路系という一種のブレーキがあって、それが運動系にゆく無意識運動を抑えているから、意識運動が出来る」(『思春期』)と解説しています。
無意識運動は不随意筋(内臓・消化管・血管など)によるものと、錐体外路性運動系(錐体外路系)によるもの(あくびや瞬きなどの反射運動、姿勢維持などの平行運動や力加減など)がありますが、整体では、これら全体を錐体外路系運動と言います。
錐体路は大脳皮質と骨格筋の間では、「動かす(意識運動をする)」はたらきをしているのですが、無意識運動(錐体外路系運動)に対しては抑制するはたらき(ブレーキ)をしているのです。
競技スポーツにおける身体訓練、また体操などが野口先生の意味する「体育」とならない理由は、「意図した通りに体が動くこと」を目的としている為だということができます。
「記録を更新したい」「優勝したい」などの意欲を持って取り組んだとしても、そのために訓練するとなると、どうしても頭が体を支配する、という随意筋に注意が向いていくのです(野口先生は「育てているのは体ではなくて、裡にある競争心とか闘争心とかではないか」と言う)。
整体では、体運動の中心にあるのは「要求」で、要求が行動とひとつになっていくことによって体力は発揮されると考えます。あくびやくしゃみも、頭でそうしようと思うより先に出てしまうように、要求によって働くのが錐体外路系(錐体外路性運動系)で、その要求の発する大本は「生命」なのです。
活元運動の効果は骨格筋のみならず、自律系の支配する不随意筋(内臓や消化管、血管など)にも及ぶため、本当の運動が出始めると、筋肉痛の範囲を超えた反応(下痢・発疹・発熱・咳・関節痛など)が出ることがあります。
ただ、それは往々にして、反応と言うよりその時にあった強い緊張がが弛みかけて出てくる症状なのですが、こうした時に「活元運動をやったら具合が悪くなった」と理解されたのでは本末転倒なのです。
また、禅文化としての野口整体Ⅰの内容にあったKさんは、指導後、頭がくらくらして、気分が悪くなるという時期がしばらく続いたことをブログでお話しました。
体を良くしようという「目的」が先立ってしまった、という事情もあったかもしれませんが、やはり、頭の緊張が弛まないこと、なにもかも放下し、脱力しきってしまうことに無意識的に抵抗する潜在意識が働いていることが前提としてあったと思います。
Kさんのみならず、私にも活元運動をし始めると鳩尾が痛くなったり、運動後、顎関節の痛みが続いた時期があります。そのころこのブログでも紹介した「大人の天心」をよく読みました。
やはり野口先生が「天心」を「いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。」と言う通りなのですね。金井先生が亡くなったことを受け入れていく過程でも、この文章を何度も読みました。
何度も立ち止まって、何度も読み返して、活元運動を行うことで思想が身になっていき、そしていつか、それがのり超える力になって行くのです。
活元運動はその時の身心を即反映し、変化するものであり、発展していく可能性を持っています。活元運動が出る出ないだけではなく、自分の身心を敏感に把握し、繊細に理解する行としても価値あるものだと思います。