野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と「無心」―後科学の禅・野口整体 1

「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体

  今日から、未刊の本の上巻第三部 後科学の禅・野口整体 に入ろうと思います。

 ここでは鈴木大拙の禅思想が大きく取り上げられ、野口整体との共通性について述べられています。

 この際、正直に言うと、私は釈宗演(大拙の禅師)師を取り上げた第三部の後半は整体とのつながりが分り難いのではないかと思い、生前、金井先生にもそう言ったことがあります。オイゲン・ヘリゲルの取り上げ方や鈴木大拙の引用についても、やり過ぎ感を持ちました。

 でも、もう一度読み返し、ブログを書きながら私も勉強し直そうと思いました。なぜかというと、本の編集上という枠の中では、今もそう思わなくはないのですが、金井先生の野口整体が、どれほどの広さと深さを持つものなのかを再認識したいと思ったからです。

 それでは、第一章「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体 から入ります。第一章では、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』(『弓と禅』)大きく取り上げられています。

これは日本よりも海外でよく知られている本で、ドイツ人の哲学教授が明治期の日本で弓道修行を行った時の体験が述べられています。

 近代合理主義のドイツ人が、弓道を通じて禅を体得していく過程については『日本の弓術』を読んで頂くとして、ヘリゲルは来日当時の日本人について、次のように述べています(『日本の弓術』)。

・・・日本人は、自分でそれを説明できるかどうかは別として、禅の雰囲気、禅の精神の中で生活している。それゆえ日本人にとっては、禅と関連することはすべて、内面から、禅の本源から、明瞭に理解される。

・・・日本人は禅のもっとも深い本質の中に成長していて、身に着いたものを頼りにして考えるからである(金井・禅は「身体性」を高度にし、そのため直感がはたらくことを意味する)。 

 金井先生はこの文章を引用し、

「このような生活の基盤を成していたのが「坐」の生活でした。

・・・坐により心が鎮まっていることで、高い「身体感覚」が生じ、その身体感覚を保持して生活するというのが、ヘリゲルの言う「禅の精神の中で生活している」ということであったと思います。」

と述べています。

 しかし、ヘリゲルが見たのは、古き良き日本人の最後の姿というべきものでした。

 ヘリゲル帰国二年後の一九三一年(昭和六年)、野口先生は「正しく座すべし」(『野口晴哉著作全集第一巻』)の中で、「物質文明上、西洋を追及すること急にして、知らず識らず精神的文明上、固有の美を失いつつあり。」と警告しています(リンク先に全文掲載)。

 軍事教練での「直立不動」の姿勢の影響で、今でも姿勢良くというと、胸を張ってしまう人がいますが、金井先生は「この姿勢は思考を停止させてしまう」と言っています。

 軍国主義下の軍事教練は、日本人の身心から主体性を奪い、「命令」を待つのみの近代的身体へと作り替えていきました。

 これは武士の「自然体」のように、上体の筋肉を脱力させ、背骨を立てお腹と腰の力で立つのではなく、筋肉に力を入れ身体の外側を鎧のように緊張させるという「不自然体」であり、上辺だけ西洋の真似をしている身体なのです。

 そして、金井先生は未刊の上巻で、ヘリゲル著『日本の弓術』を取り上げた第三部第一章について次のように述べています。

 この内容は、むしろ現代の日本人、それは敗戦後七十年に亘り伝統文化を切り捨て、かつ科学教育のみに育った(=西洋化した)人々にとってこそ、きわめて意義あるものと確信し、「無心」を主題とする禅的な日本の精神修養の道筋、野口整体を思想として著した ―― しかし「体と心」についての思想は、論理だけでは理解できない、それは身体性でこそ理解できるという ―― 本書の括りとなる第三部の第一章に活用した次第です。 

 ヘリゲルは西洋人ですが、今や日本人が野口整体の道に入る時にも同じ戸惑いや壁に突き当たる時代です。しかし日本人の場合は、伝統文化の基盤が身の内にないことが判らず、日本人であるというだけで分かるような気になってしまいがちなのです。

・・・やっぱり勉強しなければ、と反省しました。