野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

真の実在に向って進む二つの道―後科学の禅・野口整体 4

禅的な方法と科学的な方法

 今回は続きです。今日の主題は、実在を認識するにあたって「禅的な方法」と「科学的な方法」のふたつが存在する、ということについてです。

 鈴木大拙氏は、禅的な見方(方法)について次のように述べています(『禅と精神分析』中略・改行あり)。

二 禅仏教における無意識

・・・(客観的に観察し分析する科学的方法は)水から網を引き揚げてみて、ハテ何カ網目カラ逃ゲ出シテイルナ、と言うことに気が付く。しかし実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやってくる方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。

禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいって行くのである。そして実際そのものの中からモノを見るのだ。花を知るには花になるのだ(金井・自他一如)。

・・・花を知り得たこの「知」によって全宇宙の神秘を知るのである。この神秘は実は私自身の〝自己(セルフ)〟の神秘でもあるのだ。この自己の神秘こそかつての私は私の全生涯をかけてこれを追究したにもかかわらずどうしてもつかまえることが出来なかったものなのだ。

 どうしてだったかと言うと、私自身が追っかける私と追っかけられる私、つまり、モノと影との二つに分かれていたからである。こういう鬼ゴッコをしていたのではいつまでたっても私の自己がとらえられなかったのも無理のない話なのだ。

 どうもこの鬼ゴッコには実は私も力つきてクタクタになってしまった。がしかし、一たび花を知った私は、同時に自己を知ることが出来た。つまり花のまっただなかに自己を喪失して(金井・無我・無心となって)、初めて私は自己を知り同時に花を知ったのである。

 「モノと影との二つに分かれていた」とは、身心が分離していたということです。ここについて、金井先生は次のように述べています(改行・中略あり)。

 身心一如・自他一如(無我・無心)により、そのものの中に入って、そのものを知る禅的な方法は、「自己を知り同時に花を知」ることになるのです。

科学は主客分離による対象化の知であり、禅の自己智とは主客未分の一体化の智なのです(他を知る智でもある)。

 野口整体の整体指導者である私にとっては、西洋医学的方法に対しての「野口整体的行法」であり、その第一は個人指導における観察法そのもの(引用文傍線部)なのです。

 氏は・・・「科学の網の目」と表現し、科学は実在の全てを掬(すく)い取るものではないことを述べています。

 私が本書で、この「禅仏教に関する講演」を挙げた理由はここにあり、心の世界における実在は科学的には捉える事が出来ないものなのです(具体的な内容についてはここでは触れない)。

 科学的方法によって分かることと、禅的方法によって分かることがあるのです。大拙氏は、この二つの法(科学的方法と禅的方法)を「真の実在に向って進む二つの道」と表現したのです。

 大拙氏はこの禅的な観方を「絶対主観」と呼びました。しかし「いかに深々(しんじん)たる感得、神秘な言葉、絶対主観の哲学といったものがあっても、こういうところを実地に体得した人でなければ、それがじかにひびいて来ないのである」と述べています。

 この点について金井先生は「禅の哲学的知とは、体得(十分会得すること)、体認(体験してしっかり会得すること)によってのみ認識できる)。」と解説しています。

 自分が今見ている世界は、科学的には普遍的な、誰にとっても同じ世界だということになっています。モノしか見えない目には、それが現実だと認識されており、現代ではそういう人が多数派で、体は物質的な原理で支配できると考えられています。

 しかし、人によって見ている世界は異なります。そして、行をした人にのみ観える世界があり、「心の世界における実在(真の実在・生命)」はその身心一如の眼によってしか見えないのです。

 東洋宗教の修行(禅を含む瞑想法)で感得しようとしているのは、「生命」(気)であり、これは生きているものを、生きたまま観ることでしか捉えられません。その眼を開くのが目的なのです。 

 野口晴哉先生は次のように述べています(『月刊全生』)。

・・・私の考え方もずっとやってきているうちに禅の本を読んだら「俺と同じような考え方があるなあ」とそう思って禅の本を興味をもって読みました。・・・その中でも『臨済録』は丁寧に生き物をみて来たと、そう今でも感心しています。

・・・私は人間の体を丁寧に見る以外のことはやっていない。人間の体を、心を含めた人間というものそのものを丁寧にみて来た、それだけなのです。