野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

(補)野口整体は禅である(金井)

 意識以前にある自分

 野口晴哉先生による、「意識した自分」と「意識以前にある自分」についての文章を紹介します。この「意識した自分」=意識・自我、「意識以前にある自分」=無意識、として読むと、『禅と精神分析』とのつながりがより感じられると思います。

 金井先生は1967年4月に野口先生に入門しました。そしてこの文章は、同年『月刊全生』六月号に掲載され、『「気」の身心一元論』に引用されています。

 私はこれを読むと、当時の若い世代に対する野口先生の力強いメッセージを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

自分で作った自分

 私達が今「自分」と考えているもの、或いは自分はこういう事ができる、これこれこういう人間であるというように、自分が理解している自分は本当の自分の全部ではない。生れてから、意識し経験し、体験してきた事の総合が自分だと、みな思っている。つまり考え様によっては、それは生れてから自分で作り上げた自分である。

…意識して作られた自分、或いは他人の言葉によって「そうだ」と思い込んだり、自分の都合で「そうだ」と思い込んだり、自分自身で「俺にはこれ位の力しかない」とか、「俺にはこれだけしか力が発揮できない」とか言うように、いつの間にか自分に限界をつけて、 これこれこういうものが自分というものの実体だと、自分で思い込んでいる。しかしそれは、「意識した自分」であり、「意識で作った自分」である。

…意識が心を造ってきた。赤ん坊でも、始めは意識は少いが、生まれてからは造っていく。その意識以前にも、やはり自分があった。自分があったからそれを意識するようになったのである。

その意識以前の自分というものは、細胞をつくってゆく、子供を造ってゆく。眼球を造ってゆく、心臓を造ってゆく。皆そうやって、我々が今この世にあるような形になったのである。意識すら、意識以前の自分が作ってきた一つの働きなのである。

 人間の中には、もっともっと大きな力がある。無限の可能性を潜めている意識以前の自分に対して、意識して作った自分(自我)が非常に強固であるために、これが自分であるというように思ってしまって、本来の自分を発揮できなくしているのだ。意識で造ったものを打破する必要がある。 

 未刊の上巻では、金井先生は続いて次のように述べています。

 

「意識で造ったものを打破する(自我の再構成)」ことで、無意識にある「潜在的可能性」が現れるのです。

 活元運動を真に行うことでなされる、一時的な「自我の消失」の繰り返しは、これを涵養するものです。