野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

日本の近代化過程と医療―風邪の効用 2

 野口整体成立の時代背景と野口先生の病症観

 野口整体と西洋医学 1・2 でも書きましたが、日本の近代化と医療、そして野口整体の起こりについて振り返っておこうと思います。

現在、日本の医療は、医療人類学的には次の五つに分類されています(『気で治る本』より)。

A 普遍的医学(西洋医学

B 東洋医学(中国伝統医学など)

C 民間医学(治療師が行う医療全般)

D 家庭医学(自身や家庭で行われる看護や食事療法など)

E 呪術的治療(霊的治療の類)

 江戸時代までの日本の医療は、幕府公認としては漢方医学、そして蘭方と呼ばれたオランダ医学がありました。その他は、B・C・D・Eが混然としていたようです。

 明治七年(一八七四年)、医制が発布され、医療が西洋近代医学に一元化され、東京帝国大学医学部を中心とする医学教育体制が敷かれました。

 そして近代初頭~終戦直後までは「細菌性・伝染性疾患の時代」であり、明治初頭にはコレラ赤痢が猛威を振るい、結核は死につながる病だったのです。

 西洋医学は、感染症が病理研究は進んでいましたが、治療にすぐ結びついたわけではなく、明治政府は近代化を西洋諸国に誇示するため、西洋医学を正統医学としたのです。

 人々の間では、感染症に対する恐怖、また近代化に伴う社会不安や、不適応の問題が広がり、健康不安を抱える人が増加していました。

 こうした背景の下、近代化が進んだ明治末から大正・昭和の初めにかけて、各種の健康法や代替療法の実践者たちが現われたのです。それらは「肚」「坐」「呼吸」「丹田」「気」など、日本的な身体性を基礎とした修養法が中心で、身体と心の安定を目的としていました。

 また、海外の代替療法カイロプラクティックなどの手技療法)も同時代的に流入し、電線・光線などの機械療法が登場しました。大正・昭和の始めは様々な治療法・治療家が百花繚乱という時代だったのです。

 野口整体は、そうした時代背景の下に生まれました。上巻『野口整体と科学』はじめに で、金井先生は次のように野口晴哉先生の文章を引用しています。

 師は、一九六六年の誕生祝賀会で、当時を振り返り「関東大震災の後で、初めて病人に手を当てたのが十六日であった」と、自然健康保持会発足当時からの思いを次のように語っています(『月刊全生』改行あり)。

野口先生誕生祝賀会

…ともかく修繕したり庇ったりして健康を保とうという方法は人工的の健康を作ろうとして却って自然の健康状態を弱くしてしまうのではないだろうか。余分に護れば弱くなる。庇えば庇うほど弱くなる。人間の体はそういう構造に出来ている。

弱ければ弱いなりにその体を使いこなし自分の力で丈夫になって行く。そういう健康に生きる心構えが要るのではないかと思う。病気になると自分の中にある潜在体力をすっかり棚に上げてしまって、一切他人任せにして治してもらおうとする。

…健康を保とうとする人工的な方法は結果として体を弱くしてしまう。そういう人工的な健康ではなくて自然の健康を保つ考え方が要るのではないかと、集って来た人達に話をしまして大正十三年の九月十八日に自然健康保持会というのを作りました。…それからずっと私は自然健康保持という面に努力して参りました。

 

 野口先生はこうした考えの下、道場に「全生の詞(うた)」を掲げていたと言われます。野口整体(当時は野口法と言った。最初の肩書は精神療法家)は治療から始まり、野口先生は多くの当時の西洋近代医学では治療困難な病者を救ってきました。しかし、当初から他の治療家とは異なった眼で「病」や「生命」というものを観ていたことがこの内容からも伺えます。

続きます。