生命を見る目と目的論的生命観 風邪の効用 9
整体の原点
少し前に野口晴哉先生の「物の学あれど 生命の学無き也」(『碧巌ところどころ』)という遺稿にある言葉を紹介し、金井先生が「物の学は機械論・近代科学、生命の学は目的論・野口整体」として論じようとしたと述べました。
今回は、「生きているという出発点に立つ」野口整体の思想についてお話しようと思います。
金井先生は下巻『野口整体と科学的生命観 風邪の効用』で野口先生の引用を用いて次のように述べています(野口晴哉「人間の分類」『月刊全生』)。
動物の運動
人間に限らず、生きものの特色は、成長し繁殖することであります。運動系のない植物類でも、成長し繁殖しております。
目に見えない細胞の運動や茎の中を流れる水の動き、そういうものを運動というなら、やはり運動して成長し繁殖しているといえないこともないが、運動系をもっているものの動きとは少し違う。
生きものの中で、運動系をもっている動物は、成長し繁殖するということを、体を動かすことでやっている。何か食べたくなれば、食べ物を探しに出かける。或いは働いて食べ物を得る。そして疲れたら眠って、運動系を弛める。覚めれば又動く。
繁殖ということも、体を動かすことで、異性を求めるというように、皆、動くことによって果している。だからそういうこともひっくるめて、動物の生命、或いは動物と運動というものの最初の出発点を求めると、それは「生きている」ということから出発して見なくてはならない。
しかも、ただ生きているだけでなく、体の裡に要求があって、生きるなり成長するなり、繁殖するなりしている。そういう要求を、先ず体の中で感じて、そして運動というものによって実現していく。動物が生きているということは、そういうことであります。
だから運動の出発点は、裡の要求を実現する、そういう生命の動きと考えるのが本当であります。
(註)運動系 神経系のうち、全身の運動に関わる部分をいう。随意運動を司る錐体路と、その他の錐体外路性運動系に大きく分けられる。
(金井)
師が「「生きている」ということから出発して見なくてはならない」と述べているのは、死体解剖学を基にした西洋近代医学の見方に対するものであり、「生命とは、要求を体の中で感じて、運動によって実現していく存在である」、ということが出発点となっている師の思想です。
この文章は体癖観察の端緒についての内容ですが、身体に何を観るのかという整体の原点について説かれています。
これを読むと、合理的で科学的な印象を持たれる方もいるかもしれませんが、こういう観方というのは少なくとも西洋医学にはないものです。同じ人間を見るのでも、見ている相が違うのです。
金井先生はこのことについて、
観察により何を受け取るかは、立場や「関心」のあり様によって違いがあり、また、あるはたらきが存在していても、心のスクリーン(感性)が醸成されなければ映らないのです。
と述べています。生きているものを物質として見るということも、そのように見える感性によって見ているわけです。そして整体の観方も、それが観える感性があるからそのように見えるということです。
この生命を感得する観方を、金井先生は禅的観方とも言いました。頭と目だけではなく、見る側が身心一如、自他一如となって観る時、観えてくる相なのです。
これは整体の原点であると同時に目的論的な観方の原点ともいえるもので、金井先生は次のように述べています。
人間をはじめ生き物は、要求を実現するため自発的に行動し、これを果すための体の器官や機能は「合目的性」を具えています。生命は、要求を実現するという合目的性に従って発達を遂げて行く、というのが師の生命観であり、これを表現したのが「全生」思想でした(これは、ユングの「個性化」というものでもある)。
今日はここまでにします。