野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

病症経過から成長へ―風邪の効用 22

病症経過から成長へ 

 2006年2月から個人指導を始めたNさんは、金井先生の第二回公開講座(於熱海道場2009年2月28日)に参加しました。

その頃、Nさんは線維筋痛症を経過し、健康を取り戻しつつありました。人間関係も広が って、かつてないほど「生きているのが愉しい」と思えるようになっていたようです。

 しかし、心配事があるとそれに捉われて職場での対人関係に影響したり、体調を崩したりという面は相変わらずで、「情動を身体的に流す」ことができない自分に危機感を感じ、公開講座に参加したとのことです。

 Nさんは講座で、金井先生がその時の体の状態と情動的ショックがつながるように指導するのかという「個人指導の目的」を深く理解しました。

 それは、心と体はひとつであることを確かめるためだけではなく、自分の物事の感じ方を自覚しなければ、成長できないからなのです。

 そしてNさんは「仕事というのは、自分の要求に従ってすべきもの」と理解するようになって行ったようです。

 Nさんに自覚をもたらしたのは教材の以下の文章でした(2009年春公教材二部 自我と自己)。

 

「対話力」としての自我を育てる

 人は、子どもの時「自我」が発達するには、先ずは親からの「話しかけ」に依っています。「話しかけ」られることで心が反応しはたらくようになるからです。

 野口整体では「心と体は一つのもの」として、心と体をつなぐ「気」による対話を重視しています(これは「愉気法」のことでもある)。

愉気法」そのものは、言葉の有無は必ずしも問題ではないのですが、自我意識の発達の(=「生き方」を思想的に学ぶ)ためには、言葉による「対話」が是非にも必要だと思います(現代の学校教育=科学教育には、自分の「生き方」を考えるというものはない)。

「どうしたのか?」、「どうしたいのか?」など、心の中で起きた「感情」や「要求」というものを受け取ることで、相手は更なる「要求」や「感情」を表現できるようになります。そして、これが繰り返されることで、心身が円滑に発達し、「自分」というものが明確になっていくのです。

 私は「修行」の初期、相手の身体に、始めは比較的大きな変化を観察することから、やがて小さな変化までを捉える観察眼を発達させてきました。

「これは調整されるべきもの」という状態を見出すと、「どんなことがあったの」などと尋ねますが、時に「放っておいて良いのかも」と思えるほどでも、その人が生活を振り返って、「情動」につながることを思い起こして見て、「ああ、こんなことがありました」と応答するのを聴く、という対話をしてきました。

 それは、今の体のありようの原因(因果関係)を、最近の生活における「情動」に結びつけること(=意識化)だけが目的ではなく、自分の「心の使い方を振り返る=自分を知る」ことに意味があると思ってのことです。

 現代では、「これは良くないことだ」という頭の使い方(善悪の判断)をして、「このこと(嫌なこと)は忘れよう」(切断)という心の使い方をすることで、「感情」を意識下に追いやっている人が増えています(感情が不活発では、体に勢いが生じない)。

 私が個人指導で、相手の「心のはたらき」を考えるに〔身体〕を観ることは、相手自身では分からない、潜在意識や「体癖」的な感受性を知ることができます。

 そういった「心のやり取り」を通じて、波立っていたその時の自分の心に気づき振り返ることができるのです。そして整体操法を通じて体が整うと、心が静まることで、新たな気持ちで明日からの生活に取り組むことが出来るのです。

 このように指導を重ねることで、「自分を知ろう」という「自我のはたらき」によって、自分の感受性を自覚していくのです。ここを通じて、自分自身の心が深まっていき(=自我の強化)、「自我の再構成」へと進むことができるわけです。

 指導を受ける人たちを通じて思うことは、現代は、家庭においても、学校や社会においても、「対話(心が行ったり来たりすること)」が十分に行われていないことです。心は「行ったり、来たり」して発達していくのです。

 私の個人指導においての自然(じねん)流「臨床心理」は、彼、彼女が経験した、「情動を意識化し、共有する」ことです。それは、「自我の強化」と「自我の再構成」をじねんに促すことになっていたのです。

 私は河合隼雄学を通じて「ユング心理学」を学ぶことで、自分が行なってきた「じねん流臨床心理」を再認識することができました。