野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体の身体行と自我の再構成―風邪の効用29

河合隼雄氏は、先に引用した文章の終わりで、「自我はその形成過程において、それを取りまく文化や社会の影響を受けるということと、自我はあくまで完結していない常に変化の可能性をもった存在であるということである。」と述べています(『母性社会日本の病理』)。

 自我は内界と外界の両方に適応しつつ、自己実現していくために変化していくものなのです。しかし、現代では外界のみに適応し、理性的にどうすればいいのかだけを考える自我に偏っている・・・というのが前回までの内容でした。

  以前にも引用しましたが、野口先生は、要求を育てずに適応のための行動(ここでは勉強)を強いる現代の教育について次のように述べています。

 

要求と行動が一致すれば体力は発揮される

食べたくなると胃袋が働く。何かしようとすると運動する筋肉が働く。呼吸器も働く。要求があるとそれに応じて体が動いていく。要求がなければ体は動かない。

だから勉強しなければならないと思っても力は出ないが、もっと大きいことをやろう、その為には勉強が要るのだということが判り、勉強が手段になると、もっと気軽に勉強ができるようになり、疲れない。勉強が目的になると疲れてしまう。

・・・人間の中に要求を育てていない。要求を切り開いていない、要求を開かないままで行動を強いるからであります。

野口晴哉『月刊全生』)

 このようにして形成されてきた自我では、全生という野口整体の生き方、また自己実現のためには不適応、ということになるのです。

 そして、金井先生は次のように述べています。

(金井) 

 現代では科学的価値観によって、圧倒的に、自我は「どうするのが良いか」を考えるのみとなっているため、感情・要求が分からなくなっているのです(理性的思考では分からない)。

 活元運動は、その性質上「自分の内界から湧きあがってくる傾向」を一層明瞭なものにし、自我を変容させるはたらきがあります。もちろん、このような質の高い活元運動となるには、人生において「自己実現」しようという要求の高さが必要です。

小林幹雄氏は、『気で治る本』(野口整体における気の研究)で、活元運動の心理的意味について、

その本質は、むしろ、鎮められた心が、…今自らが本当に要求するものを見極めようとする感受性の訓練である。意識が、無意識と対話を繰り返す中で、真に働く場を得るための、高度に洗練された文化の行為である。

と述べています。

 私はこの文章が好きなのですが、この活元運動という行法を洗練させていくことで、自己(無意識)からの要求やあり方を自我(意識)が「新たに受けとめ直し」て生きるという「自我の再構成」ということになるのです。

 そして、これを長年続けることで保持できる、体の「弾力」による心の柔軟性は、「自我の再構成」という、人生を生きていく上での更新力を後々まで生みだすことができます。

 また整体指導(個人指導)では、整体操法という「身体を耕す手段」を用いて「偏り疲労」を調整しますが、このことがそのままに「自己性」を回復する(「自己」のはたらきを自我に結び付ける)ことになりますし、また心理指導を行うことで、心が方向づけられることになります。

この、体に対するものと心にはたらきかけるもの、両面により「自己」が啓かれていくのです。この意味から、整体指導は行う度「自我の再構成」を促すものである、ということになります。

 

 また金井先生は、現代的な自我(年齢問わず)の特徴として「青年期が長い」つまり大人になるのがとても遅いことを指摘し、

 野口整体の指導者の立場から、私は、当節は三十代には「生き方」を深慮することが肝要と考えています。

「生き方」は自身の「活かし方」ということ、「整った体」は自ずと「自己性」を発揮することになります。このために四十代前半までには、基本的な「自己」を発揮するための「自我の再構成」を一定まで通過しておくことが、大切なことと思います。

と述べています。

 野口先生は、健康で長生きするには「50代を長くする(50代の身心を保つ)」ことが重要だと言います。若ければいいというわけではなく、成熟に向かう流れとして、身心の自然を観ることが必要なのだと思います。

 今回は、野口晴哉先生の「」、自然に生きる上で無心がいかに大切かについての文章で終わることにします(『野口晴哉著作全集第五巻上』)。

 生に於ける無心ということ

吾々の生活における形式、知識、作意、そういったものに吾々は無心に生くることを奪われて、恰も人間は自分の作意で生きているように錯覚してしまったことは、人間の生活を自然から遠ざけた。

百花咲く春に笑えず、樹しぼむ秋に静かになれず、計画と作意に追われて汲々として生きている。無心に花が咲き、無心に蝶が舞い、無心と無心の動きの間に自然が生くる。

人間の生くること死ぬこと自然ならざるはない。もう少し静かに生死に処し、自然に生くることを悟らねば人間はいつも苦しんでいなければならない。空は蒼いのに、陽は輝いているのに、人間はそれを快とする心がない。生死に心を奪われ口も利けない。物に抑えられ自分で作った価値観を背負って軽々生きられない。

人間の作ったその時計が人間を縛ること申すまでもなく、人間の作った形式、知識、すべて作意なく生くることを不可能にしている。

生活における無心ということを見直したいものである。