身心一如の東洋宗教と目的論的生命観ー気の思想と目的論的生命観 10
気で観る身体
以下の文章は、2010年頃書かれた、整体指導で観察する身体についての金井先生の文章です(現在は推敲・編集が進み著書用原稿に収録)。これは確か、友永ヨーガ学院での講座のために書かれたもので会ったと思います。
先生はこの中で、「肉体」と「身体」について次のように述べています。
野口整体の「整体指導」では、相手の「身体」を、気を集めて観察します。この時、その「身体」に心や感情を観察することができます。しかし、「気」を集めることができないと、それはよく観ることができません。ですから、「科学」とはなり得ません。
しかし、科学的に進んだ医学における医療機器MRIにおいては病理学的な変化はよく観察できるのですが、〈こころ〉は写りません。
このことを西洋医学では「肉体」を観、野口整体では「身体」を観ると定義することができます。
そのようなことを感じていた矢先、不思議と、昨年の初めには講演や講義が続きました。私は普段、道場の外で活動することはほとんどありませんが、そこで、野口整体に触れたことのない人々に直に接したことで、思いを新たに「身体」というテーマと、その、本の内容や構成を一から考え直すことができたのです。そして、それはさらに〈気の「身体」論〉として、言葉が進んだのです。
それは、「日本の身体文化」という言葉を通じて、西洋人が捉えている体と日本人の捉えている体、その違いを「肉体」と「身体」という言葉で定義したことから始まりました。身体、と書いて、「からだ」と読むのが普通となっていますが、ここでは敢えて「しんたい」と読みます。
ここで言う『気の「身体」論』とは、高度に科学的に発達した西洋医学一辺倒の現状に対して、心と一体としての体、「身体=気の体」と言うべきものを提唱していこうとするものです。
これは、野口整体が生まれる前から、日本人は「からだことば」として、自分や他の人を「身心」を一体として捉えてきました。それは「気の体」として受け継がれてきていた東洋的身体観の流れを汲むものなのです。
先生はその後、この中で言う「身体」を〔身体〕と書くようになり、『「気」の身心一元論』という著書の主題にも発展したのです。
金井先生は下巻で次のように述べています。
(金井)
私は初出版直後(2004年6月24日)に著した、当会会報のための文章(「日本の身体文化を取り戻す」Ⅱ)の中で、斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス)から引用し、さらに同氏の『自然体のつくり方』(太郎次郎社)に掲載されている写真の「戦前の日本人の体」について取り上げ、「型」や中心感覚、また「気」に触れ、次のように述べました。
このような短い間に、日本人の体がこんなにも変わってきた、ということは、私自身の三十数年に及ぶ整体指導の中でも痛感するものがあります。
生活の仕方や価値観が変われば体が変わるということであり、体の変化はそのまま日本人の心が、戦前とは一変したことを物語っております。良く変わった部分もあるのでしょうが、とりわけ目立つことは、逞(たくま)しさや、野性美が失われた現在、自分の裡にある自然な勘のはたらきが極めて粗末なものになっています。
日本の「腰・肚」という身体文化はそのまま精神の文化であり、身体智と頭脳知が一体のものだったのです。
私が整体指導の中でやっていることは、野口整体の専売特許だけではなく、日本人が連綿と受け継いできた「脚(足)・腰・肚の文化」でもあり、長い間の民族の知恵なのです。
身体文化の根本が脆弱(ぜいじゃく)になった今日では、礎(いしずえ)より語り直さねばと思います。
これは、『病むことは力』の執筆中(2002年3月~04年5月)に取り組み始めた「日本の身体文化」の意味を心の内で捉え、右の文章を書いていたわけです。
禅による思考は「肚」で為されるものです。このことから、「腰・肚」文化を身につけていたかつての日本人は「禅に生きていた」と言って過言ではないのです。
敗戦後、わずか七十年(2015年現在)の「日本人の身体」の大きな変化の歴史を若い人々に知って頂きたいと思います。
近年の研究、特に哲学者の湯浅泰雄氏の著作を通じて、「目的論」という言葉を得ましたが、科学的に高度に発展した、現代社会の問題点を解決する上で、科学の機械論的生命観により失われた「生命に対する信頼」の復活こそが肝要と考え、本書を著すに至りました。
「身心一如」であるところの〔身体〕を捉えると目的論的宇宙観が復活してくるのです。