野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

病症の経過を「待つ」―気の思想と目的論的生命観12

江戸時代の病症観

 今回は、『養生訓』の病症観についてです。立川昭二氏にお会いした時、野口晴哉先生の『風邪の効用』を読んで間もなく『養生訓』の研究を始めたとのことでした。

 そして子どもの時も、若い時も体が弱かった立川先生は、病症というものの教育的効果を話してくださいました。立川先生はすでに亡くなりましたが、長寿を全うされています。では今回の内容に入ります。

 

「病の災より薬の災多し」(『「養生訓」に学ぶ』)

 現代人は、病気といえばすぐに病院、痛いといえばすぐに医者、熱が出たといえば急いで解熱剤というように医薬に頼ろうとする。苦痛を辛抱強く耐えるとか、病気の経過をじっと待つ、という習性を失ってしまった。病気は病院がすぐに治すもの、苦痛は医者がすぐに取ってくれるもの、熱は薬や注射が下げてくれるもの、と医者も素人も思いこんでしまっている。

(師野口晴哉の生涯は「病気は医者が治すもの」という時代風潮に対する啓蒙活動)

 しかし、江戸時代には、医者もいたし薬もあったが、だれも病気は医者がすぐに治してくれるとか薬を飲めば熱はすぐに下がる、とは思っていなかった。益軒も、健康のためには医者や薬をたよるより養生にたよるべきである、と言っている。

 

 人の身をたもつには、養生の道をたのむべし。鍼灸と、薬力とをたのむべからず。 

(金井)

 立川氏は、貝原益軒野口晴哉・医聖ヒポクラテスに共通する「経過を待つ」という態度について、次のように述べています(『養生訓に学ぶ』)。

 

「その自然にまかすべし」

…「自然」とは、自然の「経過」のことであり、その経過の中でおのずと自然治癒力あるいは自己回復力が有効に働くというのである。

…とはいえ、益軒は何もしないでいいというのではない。「人のいのちは我にあり、天にあらず」と言う。人のいのちの長短はもともと定まったものではない。その人の養生次第、生き方次第であると説くことも忘れない。

…江戸の人たちには、病は「その時節にてなければ」治らないという確固とした信念があった。病いはどんなにあせっても治るべき「時節」が来なければ治らない。「治癒力としての時間」ということを信じていた。

 一昔前はよく、病気には「峠」というものがあるということを言っていた。

(金井)

私が子どものころ、風邪をひいて寝ていた時、熱が出、汗をたくさんかくと、祖母は「これで峠が過ぎた!」と。

それは、今から思うと「経過を見守ってくれていた」というように感じ、思うことができます。

 大変な時、苦しい時も「頑張りなさい」ではなく、「今が峠だよ」と言って、暗に「通り過ぎれば楽になるよ」という観守り方(愉気法)がありました。日本の野山という「自然観」を通して、人間の「じねん」を教えていたのです。

野口晴哉は講義でよく、「闘病」という言葉が大正時代に作られたと語っていましたが、それ以前の日本には、病気と闘うという考え方は無かったのです(闘病という言葉は西洋思想の影響)。

 

「その自然にまかすべし」

…自分あるいは家族が病気になった場合、医者や薬にあわててたよるよりも、まず病態の時間的変化をしっかり観察し、その病態に合わせて取るべき注意たとえば食養生をしっかりと守り、病勢の転帰である時間軸としての「峠」を見極め、快方への経過をひたすら待ったのである。

 この「待つ」ということについて、益軒は『初学訓』巻之五で次のように語っている。

 

 万事を行ふに待(まつ)という字を用ゆべし。待とは急ならざる事はいそがずして心しづかに思案し、詳(つまびらか)に行ふを云(いう)。かくの如くすれば過(あやまち)すくなし。事を行ふにいそがしく急なれば、かならずあやまりあり。

 

「待つ」ということは、相手を信じることである(待たないことは信じないこと)。病気の場合、からだの自然を信じることである。こうした病気における自然の経過を信頼するという考え方について、整体法の創始者として知られる野口晴哉は『風邪の効用』で次のように語っている。

  

 最近の病気に対する考え方は、病気の怖いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きていく上での体全体の動き、或いはからだの自然というものを無視している。……早く治すというのが良いのではない。遅く治るというのが良いのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい(『風邪の効用』)。

 

  彼にとって「風邪というものは、治療するものではなく経過するもの」であり、「風邪を上手に経過させることができれば、まず難病を治せると言っていい」のである(液体的・時間的・全体的な捉え方)。

 病気を人のからだの「経過」と考えるここには、病気を敵対視する近代西洋医学の思想はない。そして、「体の全体の動きと時機をつかまえる」ことが大切であるという野口晴哉の言葉には、益軒やヒポクラテスの言葉と響き合うものがある。

 

 

 師野口晴哉は整体指導者を目指す者に対して、この「待つ」ということの大切さを、繰り返し説いていました。

 

(補足)

 野口晴哉先生は、「経過を待つ」ことについて次のように述べています(『月刊全生』)。

 

・・・心を静かにしてぽかんとしているだけでは駄目であって、もう一つ体の中の要求をみな感じ取ってそれを運動に表現していく、それが放っておく状態でなくてはならない。

・・・我関せずという無関心は、放っておくという意味にはならない。

・・・要求をみな運動として表現して、心の中のいろいろなものを、乱れを残さないままに静けさを保っておく、天心を保っておく。

そういう心身の状態にもっていって、そしていろいろな変動に処していく、経過するのを待っている。

何もしないで待っているのとそれは違うのであります。

・・・整体の示すところは、いろいろな病気の中で尚、自然を保つということ、静けさを保つということであります。

どんな瞬間にも息を乱さないで、静かに要求を生かすということが理想であります。死ぬまでそうしたい。