志を全うするための「養生」ー気の思想と目的論的生命観14
人生後半の意義が失われた現代
今回は「若い時の苦労は買ってもせよ」という言葉の意味を考えつつ、読んでみてださい。では立川昭二氏の「養生訓」に戻ります。
(金井)
立川昭二氏は、なぜに「養生」の必要があるのかといえば、それは人生の喜びが五十歳を過ぎなければ、実はわからないからという、益軒の文章を引用し次のように述べています(『養生訓に学ぶ』)。
「長生すれば楽(たのしみ)多く益多し」
人生五十にいたらざれば、血気いまだ定らず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世(せ)変(へん)になれず。言(ことば)あやまり多く、行(おこない)悔(くい)多し。人生の理(ことわり)も楽(たのしみ)もいまだしらず。五十にいたらずして死するを夭(わかじに)と云(いう)。是(これ)亦(また)、不幸短命と云べし。長生(ながいき)すれば、楽(たのしみ)多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能(よく)せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なることも、長生せざれば得がたし。こゝを以(もって)養生の術を行なひ、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成(なる)べきほどは弥(いよいよ)長生して、六十以上の寿域(じゅいき)に登るべし。
…江戸という社会は、ある意味で言うと、老いに価値をおいた社会であったと言える。それにたいし現代の日本は若さに価値を置いた社会と言える。エネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、それは力や量の論理であり、若さの文化と言い換えることもできる。
(これが西洋近代科学文明)
江戸にはエネルギーやスピードといった価値や、力や量といった論理はなかった。暮らしは自然のリズムに沿って流れていたし、人や物もゆっくりと動いていた。人がその一生で蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立った。
そうした社会は年寄りの役割が厳然としてあり、また社会そのものが年寄りのゆっくりとした動きをしていた。今言うところの情報も若者より老人の方が豊かであった。
江戸に生きていた人は今日とちがって人生の前半より人生の後半に幸福があった。「老いが尊くみられた」江戸時代、現代人の最高の願望である「若返り」という思想はなかった。
「天命を楽んで身ををはるべし」
…江戸時代の日本人の平均寿命はきわめて低かった。寺院の過去帳や人別帳から推定すると、江戸後期の平均死亡年齢は男女とも四十歳前後であった。
こうした死亡年齢の低さは乳幼児の死亡率の異常な高さによるものであり、五十歳以上の平均死亡年齢は七十歳代と推定され、今日とあまりひらきはない。
西鶴や芭蕉は「人生五十」であったが、江戸時代にも八十五歳まで生きた貝原益軒と同じ長寿者はかなり存在していた。
…それでは、養生とは何かをひたすら畏れ慎み惜しむためなのか―。養生はただ健康で長生きするためのものなのか―。そもそも、養生するのは何のためなのか―。…
「楽を失はざるは養生の本」
およそ人の楽しむべき事三あり。一には身に道を行ひ、ひが事(過ち)なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快(こころよ)く楽むにあり。三には命ながくして、久しくたのしむにあり。富貴にしても此三の楽なければ、真の楽なし。…
ここでいう「楽」とは、もとより現代風の享楽的な楽しみではない。健康で長命をたもち、真(まこと)の楽しみを楽しむことである。
そして、ここにも楽しみは人生の後半にあるという考えがみられる。健康で長命でありたいのは、ただ長生きするだけではなく、老年において人生の真の楽しみを楽しむためである。
現代のように若いときに楽しむのではなく、むしろ老いてから人生を楽しむ。益軒自身若いときより老年のほうが人生の楽しみを心から楽しむことができた。
人生を楽しむ、そのための養生なのである。貝原益軒の『養生訓』というと、堅苦しい禁欲的教訓とのみ受けとられがちであるが、じつは、そこには人生を楽しむという思想が根底を貫いているのである。
(金井)
益軒はただ長生きするために養生を説くのではなく、真に人生を味わうために、自身の志を全うするために必要な養生を説いているのです。
河合隼雄氏は、やはり「人生後半の意義」を重視したユングの思想について、次のように述べています(『ユング心理学入門』培風館)。
…ひとは六十歳になって、なぜ三十歳の若さにしがみつこうとするのか。六十歳には六十歳の味があるはずである。昔からあった「老人の叡智」はどこへ行ったのか、とユングは嘆く。
アメリカでは老人は若さを誇り、父親は息子のよき兄となり、母親は、もしできることなら、娘の妹でさえありたいと願う。結局、このような混乱が生じてきたのも、今まで、あまりにも老人を尊重してきたことの反動であろうが、こうまで極端に走ってしまうと、まったく意味のないことである。
…このような人生の後半の意義に関するユングの説は、東洋人にとっては目新しいものではないといえるかもしれぬ。孔子の言葉をもち出すまでもなく、東洋の宗教や哲学は実際に老人の叡智に満ちているということができる。それではユングの説を日本人に述べることがまったく無意義であるかというとそうともいいがたい。アメリカについて述べたのと同じような理想の父や母になろうと努めている若い両親が日本にいないとはいえぬからである。
河合氏がこの本を著した43年前には、「アメリカ的老父母」という危惧は日本においてはわずかにしかなかったのですが、果たして今日はどのようでしょうか。
ユングは、「人生観」という視点からも西洋近代文明の問題点を指摘し、「自我から自己への中心の移動」を為す意味と重要性を説きました。「中心の移動」により、現代的な「老いる」というニュアンスでない、「老成」という「大成」があったのです。
この近代化百五十年の歴史において、あまりにも西洋近代文明の価値観に翻弄され、自国の文化の不易流行としての価値までを失ってきたのではないでしょうか。