「体」がつくる感受性の世界「体癖」①-体癖論Ⅰ 4
「自分の感覚によって、その感覚を眺めている世界」とは
今回紹介する文章は、2006年に月刊MOKUという雑誌に連載した記事が元になっています。本の原稿にはイラストがあって、体形の特徴と得意な動作、苦手な動作が良く分かるようになっています。
イラストでも、上下型が体を屈めたり、閉型が手を上に伸ばしたりするのは、本当に大変そうに見えるのです。不思議なものですね。
それでは今回の内容に入ります。
(金井)
先ずは「個人」の感じ方、心の世界が、身体とどのように関係しているかを、AさんとBさんという二人の女性を例に紹介したいと思います。
① Aさんの運動特性と感受性― 無意識に物を上に置いてしまうAさん
自宅で料理を教えているAさんという人がいます。
Aさんは背が高く、腕と脚、とくに腕の長さが目立つ体です。それで手を上に上げる「挙上動作」が得意で、その時見た目にも美しさがあります。子どもの頃バレエを習っていたのですが、先生に手の動きを褒められていたそうです。
Aさんは電車に乗っていても、つり革につかまるのでは物足りず、つり革の付いているバーにぶら下がりたくなると言います。
立姿で腰椎一番に愉気(野口整体の「手当て」で気を集める法)をすると、挙上動作が鋭敏に行われる体です。
彼女は背の高い女性ではありますが、彼女の注意の方向(「気」のいく方向)が上方であり、また無意運動特性に「上に伸びたい」という「要求」があります。
これが「彼女らしさ」のひとつのあらわれです。
傍で見ていても、彼女が手を上げる動きは伸びやかで自信に充ちています。顔を少し上げて、遠くを見る時の眼差しと表情は、Aさんの顔が最も美しく見える瞬間です。
この「挙上動作」が得意なタイプを、野口整体の体癖論では「上下型」と呼んでいます。
上下体癖が主体になると、考えることが得意で感じることが疎かになる感受性の傾向があります。
先日Aさんは、
これまで感じるということが足りなかったな、と最近になって思います。それまでは、情況を考慮した上で判断する、みたいな感じでした。「全体の事情がこうなんだから、私がどう感じるかなんてしようもないこと」と思っていました。「感じるってこういうことなんだな」ということを、野口整体を通じて、金井先生に教わっているのだと思います。
と話してくれました。
そんなAさんは、台所でよく使う道具を、上の方の棚に置く習慣がありました。下の方に収納すると、あるのを忘れて、使わなくなってしまうというのです。
またAさんは、仕事で生徒がたくさん来ますから、道具をこうして置けば「みんなも使いやすい」と思い込んでいたのです。
彼女はこんなことを話してくれました。
あらためて自分の台所を見てみると、確かに何でも上にあるなあ、と。
しかし、よく考えてみると、多くの人が手が届かないのです。普通、料理を教えている人は、誰でもサッと取れるところに物を置くように配慮しなければいけないのでしょうが、本当の意味では、そんな配慮をしたことがなかったんです。
彼女としては、いろいろな人たちが台所を使うことに、一応配慮しているつもりはあるのです。
しかし実際には、決して「みんなも使いやすい」ではなかったのです。
他に、この人が「みんなも使いやすい」と思う中には、「開型」(開閉型・十種)という体癖があります。
開型というのは母性型で、「人の世話をしたい」というものです。Aさんの「生徒の面倒見が良い」というところは、開型の表れなのです。
上下型は「考える」ことが得意で、一応「客観的」なのです。そして開型もありますから、「みんな」のことを思っているのですが、面倒見の良いAさんも、「自分を離れて感ずる」ということができないと、本当の意味で他の人のことを識ることはできません(この意味は、どの体癖も共通)。そのためには、先ずは体癖を通じて、「自分をよく知る」ことが肝要なのです。
Aさんほど面倒見の良い人でも、みんなが使う物を「上に置く」という面は、いかに独善的(?)であるかということで、それが体癖なのです。「私だけ取れればいいんだわ」なんて、決して思ってはいないのですが、自ずとそうなっていたのです。体癖を知って、Aさんは「自分の心の世界が少し広がった」、と話しました。