野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

個とは何か①-体癖論Ⅰ 7

科学的社会で失われた個性と創造性

 今回は、「個性とは何か」が主題です。「体癖」というのは体(無意識)の側にある個性で、生まれつきのものです。木でいえば松や杉、欅などいろんな種があるようなもので、それぞれに性質の違い、個性があります。それはどれが一番いいとか悪いとか言えないものですし、同じ杉でも品質に違いがあり、育った環境によっても変わります。同じものは一つとしてないのです。

 ですから、同じ体癖であっても、複合の仕方や成育環境によって違いがあるわけです。

 しかし、近代以降の社会に適応する上では、「規格」に合わせていく必要に迫られ、教育においても要求を育てるよりも先に「こうしなさい」と行動を強いていることがほとんどです。そのため、人間の場合は意識しての自分と無意識的な(体癖的な)自分との間にギャップがある場合も多いのです。

 野口晴哉先生は、「体癖のことは人間の外と内を繋ぐ着手の処と言えよう」と言いました。体癖的個性を殺さない適応、というのが整体の目標なのです。

(金井)

(体癖論Ⅰ 2)で、師野口晴哉の「普遍的な目で個人を見ようとすると、人間として一番大切な個々の特性を見落としてしまう。」という言葉を紹介し、普遍性を追求する科学、「禅の智」と言葉を置きました。

「普遍的な目」とは科学の目なのですが、では「野口整体の眼」とは何かと言うと、個々の人間・生活している人間の「全体性(=心・体・人間関係)」を観るのです。

 分析的な「科学の知」は、物事を客観的・合理的・普遍的に捉えたものです。ですから科学には、師野口晴哉の言う「個人」は、実は存在しないのです。

 西洋文明の特性として、「近代自我」という個人の確立により、社会では個人主義的、キリスト教会においては集団的という特徴があります(現在では、欧米の人々はキリスト教離れが進む)。

 日本は反対で、今でも社会は集団主義的ですが、個人においては、伝統的に個の確立を目指したものがありました。

 それは「禅は、最も進んだ個人主義」という言葉があるように、個を確立するのが「禅」なのです。ユングの「個性化=自己実現」と同じです。個を確立するというのが、西洋の意識を主体としている(=近代自我)か、日本(野口整体)の無意識を主体としたものなのか、という相違です。

 上巻で紹介した鈴木大拙氏(1870年生)は、「科学的現代における人間の機械化」に伴う、「主体的な生き方・個性と創造性」の喪失について、そして「現代における坐禅」の意義を、次のように述べています(『禅とは何か』春秋社(1927~8年にかけての講演より))。

第四講 証三菩提を目的とする禅

 禅というものは具体性と創造性を帯びたものである。…抽象的なものでなくして、具体的なものである。…個人の体験ということの本当の意味に徹する人には、その人の生き方には人のことを真似したものがない。天地間はその時その時に創られてゆくといってもよろしい。その人のやることはことごとく創造性を帯びているといわなければならぬ。

 それで人がやっているから、自分もそうするということでなくして、その人のいわゆる、やることはその心の中から発露したものである。これは子供を教育するという上においても、ことに宗教(禅宗)というものを人に伝えるという点においても、やはりこの創造性ということを軽視してはならないのである。

 科学というものは、まことに結構なものである。われわれの生活というものが便利になり、物が安直になり、昔は大名か大金持ちでなければ、手に入れることもできなかったようなものが、今はわれわれが誰も平等に口に味わい、身に着けていることができるのである。

 その点はまことに結構であるが、それと同時に人間がことごとく人形になってしまった、機械になってしまった。これは私は近代文明の弊害であると思う。

機械を使うというと、人間が機械になるのではないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。使うものに使われるというのが、人間社会の原則であるらしい。

 人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなって、その弊に堪えぬということになっている。

 この弊に陥らざらしめんため、宗教がある、宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出してゆくことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明から逃れることができると私は思う。

それでますます宗教というようなことを、どの方面からでも説明のできるような具体性と創造性を兼備したこの禅のごときものを、ますます今の世界に弘めなければならぬ、…またそれと同時に、物を離れて物を見る、この機械となっている世界を離れて、別に存在する世界を見る、すなわち物の中にいて物に囚われぬ習慣をつけておかなければならぬと思う。

…すなわち坐禅をしてみるというだけの余裕ができなければならぬと思う。

  鈴木大拙氏は「宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出してゆくことを教えている」と述べています。「禅」や職人の道には、個の確立をめざすものがあったのです。

社会が科学的に発展し普遍性が重要視され、価値観が一様になる中で、鈴木大拙氏は「創造の世界」を、ユング(1875年生)は「個性化」を主張しました。そして師野口晴哉は、個人としての「生き方=宗教」を説いたのです。