野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

体癖修正-体癖論Ⅱ 1

「理性」では観えない体癖

 今日から体癖Ⅱ、より具体的な体癖の内容に入ります。本の原稿では一つの章ですが、ブログでは二つに分けました。それは、この体癖論Ⅱ以降は、未完成の部分を含んでいて、補足や再編が必要な部分であることも申しあげておきます。

「体癖」はそれなりに認知度が上がっているのですが、一般的に体癖は「ありのまま」でいいとか、私は何種だからこうなの、という段階で、「体癖修正」はまだあまり理解が進んでいるとは言えないのではと思います。整体という基礎がないと体癖修正は分かりにくいのです。

それでは今回の内容に入ります。

 

(金井)

 デカルトの理性主義哲学(近代合理主義哲学・近代科学のパラダイム)では、「感覚・感情」という主観的なものは当てにならないということで、「理性」による認識(客観)だけが真実とされるようになりました。

 対象を認識する上で、「感覚や感情(主観)」によって判断されたものは「科学的認識」ではないとされたのです(科学は「感覚と感情」を切り捨て、感覚の中で使われているのは「視覚」のみ)。

 それで、科学が発展する中では、「感じる」はたらきが使われておらず、現代という科学的社会に適応するために、多くの人々は自ずと考えることばかりになって行きました。

 意識のはたらきには、感覚・思考・感情があるのですが、現代人の多くは理性的思考のみが訓練されているのです。こうした訓練が行き届いた頭の良い人たち、勉強が出来て理屈のわかっている人たちに他者の「体癖」が観えるかというと、多くの場合、観ることができません(体癖・五型十種の中でも、上下型、前後型は理性的)。

体癖は「感性」がはたらくことで観えてくるもので理性では解らない、と言って過言ではありません。体癖は「気で観る」ことで分かるのです。

例えば、水商売のプロの女性には、人を観る力(見抜く力)があるといわれますが、体癖を観るとはそういった能力なのです。

 彼女たちは、理性ではなく、体を張ってお客さんを受け取っているからこそ、その人のことがわかるのです(「体は感情である」といって、この感情の意味は広いが、このはたらきで分かるものがある)。

 また、自分の体癖的特徴が、良く表れている状態を「快」と感じる感覚が発達していないと、活き活きしていない状態に対しても、不快と感じることができません。このように、「快・不快」の感覚が発達していないと自分の体癖は分かりにくいものです。

 あるいは、自分の中に親と同じ体癖が濃くあって、そして、親を嫌っている場合には、その部分を認めたくないという心が強くはたらいています。

 例えば、それが「好き嫌い」という面であったとすると、こういうものが自分の中心となっているなどと認めることは困難なものです(好き嫌いで判断すればいい場合まで否定したり、嫌悪するようになる)。

 そして、現代の科学的教育の基には「二分法」があり、「良い・悪い」、つまり「○×」で判断することを訓練されています。「好き嫌い」は悪いこと、「勝ち負け」にこだわるのは良くないことと「×」をつけているのです。

 この結果、自身の本来的な「感受性・要求」を素直に感じ取ることが出来にくいという面があります。

「好き嫌い」が感受性の中心にある人(左右型)で、自身の内で問題になるのは、「嫌い」が多い場合です。しかし「身心」に弾力が出ると「好き」が増え、世界が広がって行くのです。「嫌い」なものを「好き」になるというのでなく、「身体の持つ可能性が拓かれる」ことで、好感を持つことができるものが増えて行くのです。

 身体の開墾を通して、心の世界を拡げるのが野口整体です。