「対話」における体癖②―体癖論Ⅱ 8
無意識的感受性の偏り―他者を理解するとは
先日、オードリー・ヘップバーンの写真を使いましたが、昔の女優さんは整形したり、無理に体を矯正するようなことをしていないので、却って自然そのままの美しさが出ている場合があるのです。
また、アメリカ的なのかもしれませんが、写真を撮る時、身体的な特徴を隠さないので、外国の写真の方が体癖的特徴を見つけやすいことがあります。そういうことをセクシーさとして受け取るようにも見受けられます。
日本の女優さんなどは、ある一定の枠から外れていると上手に隠してしまうので、なかなかいい写真(体癖的特徴を捉えるための)が見つけにくいですね。
日本は自然であることよりも、基準値であることに重きを置いてしまうのか、そういう傾向はますます強まっている気がします。体癖を見るとは、その人の自然を感じること。そういう目を養っていただきたいと思います。
(金井)
体癖論Ⅰ4・5(①Aさん、②Bさん)で紹介しましたが、「人は普通こういうものでしょう」と、自分の判断基準を持っているものです。しかしそれは、自分が普段「何気なくそうだと思っている」ことに過ぎないことが多いのです。
その「何気なくそう思っている」ということに、感受性の傾向が潜在しており、すべての人が無意識に体癖的感受性の世界に住んでいるのです。
感受性とは、意識以前にある(=体が元となっての)感じ方のことで、体癖とは、何気なくそう感じてしまう、無意識にそう思ってしまうといった、無意識的感受性のことです。それが無意識であるがゆえに、人は自分の感じ方、物の見方に「傾向・偏り」があることに気付くのが難しいのです。
家庭や職場などで、「どうしてこうなんだろう」と、相手が理解できない時、周囲の人と通じ合えない時、「感受性の相違」というものが根本にあるのです。
野口整体の「体癖論」は、師野口晴哉にあっても、「共感」と「観察」の視点において研究されたものと思います。皆さんにおいては、まず客観的に自分の体癖を観、他者を眺め、共感的にその主観を理解しようとすることで体癖論を学んでいくとよいでしょう。
師は「体癖は、自分が人を理解するために必要だった」と言いました。この言葉を私は、自身の経験からこのように考えています。相手を知らないままに、体を押さえていては変わらないのですが、「集注による理解」――「無心」により、その時自分から離れて「相手をそのままに受け取る」こと ―― が行われると、(気を通じて)相手にはたらきかける力が全く違ってくるのです。
孫子の『兵法』に次のような一節があります。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず。彼を知らずして己を知れば一勝一敗。 彼を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず危うし。」
これと同様、自己の体癖を踏まえ、相手の体癖をよく知った上で、相手との対話に臨むことができたならば、より良く事を進めることができましょう。
感受性が違うと、善意も通じなかったり、好意が悪意になったりするものです。そうすると人間関係に、意識しないひずみとかゆがみが生じてきて、お互い何となく気まずいということになり、さらには、いさかいなどに発展します。
どっちがいいとか悪いとかいうこと以前に、お互いの気の疎通(共感)がない、ということなのです。
「自分を離れて感ずる」ということができないと、本当の意味で他の人の感受性を識ることはできないのです。