野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

(補)裡を整える

 はじめに の途中ですが、『野口整体ユング心理学』に入るにあたり、内容全体を象徴する野口晴哉先生の語録を紹介します。

「それ」と「これ」

 人間生活は外の条件によってだけで行われるのでは無い。同じ食物を同じ量食べても栄養度も元気も異る。その内部的な力の湧きおこり状態による面も又多い。それ故人間の生活は、外部の条件で営まれているものゝ他に、裡からの力の湧きおこり方から見なければ、観察として正しいとはいわれない。裡の湧きおこりは体の要求、心の状況の反映といえる。心が愉快なのは外の条件が裡の状況と適合するからで、裡に求むるものがなければ外の条件だけで快は得られない。豚に真珠のたとえもあるが、裡の条件が調えば山紫水明が山紫水明に移り、歯が痛んだだけで山紫水明は消えてしまうのであるから、裡の条件を寧ろ主として考えねばならないのではあるまいか。

 体が調って快であれば、貧乏も困窮もさらに気にならぬ。湯上りに借金の苦を忘れている如く、満腹で焦々した気持が納まってしまうことがあるのだから、体や心の面から人間生活を見ることが進めば、生活の主力は外の条件より裡の問題に比重が多いことに気がつくことであろう。

 整体生活とは整体の為の生活であると同時に心や感覚の快な生活といっても良いだろう。何を食べても旨く、いくら働いても疲れない。醒めて快く、休んで快く、手も脚も軽い。体の重さなど感ずることもなければ胃袋も心臓も頭すら存在を感じない。何にも無い。降っても照っても、暑くても寒くても気にならぬ。困ることがあれば裡を省る。苦しいことがあれば力を湧きおこす。つかえがあれば元気を出す。裡の生活の発展として外の生活を営む。

  本当は誰もそうなのである。たゞ外に眼を奪われて裡のことを感じないのである。感じないが、裡の条件で外のことが、同じものでも変って感ずる。同じことが楽しかったりうるさかったりする。しかし裡を省みないのだから外を変えることしか考えられない。外をいかに変えても裡から変らぬ限り変らない。百万の富を抱いて不安に明け暮れしている人もあれば、千円を得て欣喜活動しだす人もいる。ただ生活を産む本体が裡にあること、本当の自分自身から生活が現われていることに気がつかないのである。それ故に悩み惑う。

 それは何の故か、裡の条件はどのように、ということを明らかにする為に、体癖研究は行われ、潜在意識教育の追求が為されているのである。この上に立って整体指導を行うことが吾々の為していることである。その第一歩は体と心の持主である自分を自覚することに始まる。体や心が自分のつもりで自分が疲れたりしているつもりのうちは身心の使い方をいうことはできない。「機を得ること」が自分の生活の中心であることが整体の中心である。

 得て捨てゝ我は生くる。いつ迄も抱いているのは小児的だ。大人の天心は幼児の天心とは違う。成長したということは成長以前のそれでない。這ったり他人に食物を口に入れて貰ったり、背に負われたりすることは天心ではない。四つ足で歩いて喜怒哀楽に身を牛耳られることも獣の天心であっても人間の天心とはいえない。しかしそれだからといって得た機を捨てることと機を失って息をしていることとは違う。この違いをハッキリさせることが大人への行ともいえようか。その行に自然があり、拓かれて天心に至る。整体生活の追求こそ吾等の行であろう。

野口晴哉

語録 あれやこれや(『月刊全生』)