野口整体 金井蒼天(省蒼)先生の潜在意識教育と思想

野口整体金井流 蒼龍 整体の道51年で亡くなった金井先生の説く野口整体とは

野口晴哉生誕百年―臨床心理による整体指導 序章 一4

西洋医学の「科学性」と野口整体の「宗教性」

 対談の中で、私が「野口整体は宗教である」と言っているのは、野口整体の行法(活元運動・個人指導)や、全生思想の基には「禅」があり、何より、これらが人の「生き方」に関与するものだからです(ここでの宗教とは、本来の意味での「生き方」を考えるものを意味する)。

 禅学者の鈴木大拙氏は、『禅と精神分析』で科学の物の見方について次のように述べ、禅的な方法を示唆しています(禅仏教に対する講演 )。  

二 禅仏教における無意識

…科学が実在を扱う方法というのは対象をいわゆる客観的方法で観察する。たとえば、この机の上に一輪の花がある。これを科学的に研究するとすれば、科学者はそれをあらゆる角度から分析に付する。植物学的、化学的、物理学的にいろいろやる。そしてそれぞれの特殊の研究的立場から花について見出したあらゆる事柄を報告する。そこでいわく「花の研究はつくされた。別の研究をやって見て何か新しいことが見付け出されぬ限り、この花について述べることはもはや何も残っておらぬ」と。

 であるから、実在の科学的取り扱いというもののおもな特徴は、対象を記述すること。それに〝ついて〟語ること。その〝周囲〟をぐるぐる回ること。我々の知的感覚に訴えるものはなんでもこれをとらえて、それを対象から抽出する。そしていっさいのこうした手筈が終ったと考えられる時に、こうした分析によって公式となった抽象の結果を総合して結論というものを得ることになる。

 しかし、なおここに疑問が残る。〝網にとらえた物は果たして完全な物だったのか〟ということだ。私は言う〝とんでもない〟と。なぜなら、私たちがとらえ得たと思った対象とは、〝抽象の寄せ集め〟ではあるが、〝そのものズバリ〟ではない。実用的には、功利的な目的のためにはこれらのいわゆる科学的公式といったものでも十分過ぎるように見える。

 けれども、いわゆる対象自体は全然そこにはいないのだ。水から網を引き揚げてみて、ハテ何カ網目カラ逃ゲ出シテイルナ、と言うことに気が付く。しかし実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやってくる方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。

 科学は現実を認識する上で、ある要素を現実から拾い上げているものであり、これが「網の目」です。網である限り、その目からこぼれるものがあることを、科学は知らなければならないのです。

現代の日本の医学は、明治期にドイツから輸入された西洋近代医学を基として、今日的に発達したものです。近代医学は科学文明に伴い発達した医学(註)であり、デカルトの近代合理主義哲学(心身二元論と機械論的世界観)を基にしています。

(註)ヴェサリウス(1514年生 ベルギー)の人体解剖学やハーヴィ(1578年生 イギリス)の血液循環論が、デカルトの近代科学成立に影響を与え「機械論的生命観」が確立した。上巻第一部第一章二 5で詳述。

 

このデカルト心身二元論によって、理性のみが精神(=心のはたらき)とされて「感覚と感情」は切り捨てられ、それで「頭が心で、体はものとなった」のです。

 そして、「感覚」の中で唯一使われているのが「視覚」です。視覚は、客観視(物と自分とのつながりを切断=対象化して見る)という方向に特殊に発達していきました。それで科学では、「誰が見ても分かる」という普遍性が重要視されるようになったのです。

 

 上村氏が医師免許を取得する頃、盛んになってきたCTやMRI(実用化は一九八〇年代~)による「画像診断」は、科学で唯一使われている感覚である「視覚」による認識と、客観性・普遍性が重要視される(誰が見ても、どこにおいても分かる)という「科学性」によって、機械的に高度に進んだものです。

 次の二の対談では、野口整体の観方と西洋医学の見方の鮮明な対比、また機械論的見方とはどのようなものかが明瞭に述べられています。

 いろいろな立場の医師がおり、全ての医療者が二の対談の中にあるような診断をするとは限らないと思いますが、彼との対談から、現代医療の基盤にある「科学」が浮かび上がってくるのでは、と思います。

 ここからは、当会の準塾生であった上村浩司医師との対話から、現代医療の実情を通じ、西洋医学の「科学性」と野口整体の「宗教性」について考察してみたいと思います。

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ヴェサリウス 心臓の図