野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口晴哉生誕百年―臨床心理による整体指導 序章 三1

人を「モノ」として見る機械論的人間観と現代医療

 今回から序章の括りに入ります。登場する助産師は、上村医師と同様、金井先生の個人指導を受け、準塾生として勉強している人でした。

 上村医師の話していた冗談で、総合病院では脳外科医、心臓外科医は花形で、発言力も強いのに、肛門科などの医師は存在感が薄く発言力も弱い、というのがありました。金井先生は大笑いし、この話がお気に入りでした。

 野口整体では、脳(頭頂部)と肛門には密接なつながりがあり、同時に心臓にもつながりがあります。もとより、ひとりの人間の中ではすべてつながっていて、どれが欠けても生きられないのです。

 それでは内容に入っていきましょう。 

ある助産師の「看護診断」についての話

 私はある助産師の話を聞き、「看護診断」というものを初めて知りました。それは例えば、ある患者さんが入院し、医師の診断は「切迫早産」であるとします。

 ところが、切迫早産により「妊娠継続が困難な状態にある」、というのが「看護診断」だと言うのです。

「状態にある」とは、「生活スタイルはどうか」、「呼吸している状態」「栄養は充たされているか」などですが、これらを集めての診断が、「看護学」上の診断だと言います。

 しかし、こういう要素には、医師は関心を持っていないそうです。私は、ここに大きな差異を感じたのです。

 現代の医療において、多くの医師がこのような「…な状態にある」という言葉、感覚を持ち合わせているのなら、と思いました。

 さらに看護診断では、「安静を保てるか」「治療を理解しているか」が大事だと言うのです。つまり、「切迫早産により妊娠継続が困難な状態にある」に対して、安静、つまり心を落ち着けることができるか、それが「治療を理解する」ことですよと、彼女の話を理解しました。

 切迫早産により「妊娠継続が困難な状態にある」というのを、「呼吸・栄養」などに観る看護学の立場には大いに賛成です。そして、彼女は「医師の診断は重要ですが、これとは別に看護診断を行い、この時点で観方が異なってくる」と話しています。

 しかし、長期療養の施設ならともかく、一般的にはこの看護診断は医師の仕事とは別の仕事であり、医師は看護の仕事に直接関わることがないと言います。

 それは、患者から切り取った病症だけに、病理学的に対応するのが医師の立場のようです。つまり医師の仕事とは、学問的に捉えられた病症にのみ向き合うことで、病床にある人間に向き合うのが看護師の仕事なのです。

 この助産師は、画像診断だけで判断する医師とは違い、看護師の立場からは、触れて、感じたことから、ある程度「患者の生活」を窺(うかが)い知る(註)ことができると話していました。

 そして彼女は、「私」と「体」が切断されている傾向(心身二元論)が強くなっている現代、若い医師の問題もありますが、患者さんも少なからず「私、どうして良くならないんですか?」とだけ訴えている、と話しています。

 このように、「私」と「体」が切れているのが現代です。

 画像診断が主流となり、理学所見が行なわれなくなった現代医療で、人間的な関わりがより薄らいでいるのです。

(個人の内での心身分離、他者との間での自他分離が科学の発展によってもたらされている。この二つの「分離」は西洋近代文明の特徴)

 よく見れば、「看護」とは看て護ることであり、「看」とは「手」と「目」なのです。この手があるというのが、二で上村医師の話の中に出た「触診」につながっているのです。