野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第一章 野口整体の身心の観方と「からだ言葉」一 4

 今回は一の最後で、野口整体の身体観を学ぶ意味についての内容に入ります。

 野口整体の身体観というのは、野口先生が「骨格筋の生理と心理」とも表現しているように、運動系を中心とした観察をする見方のことを言います。筋肉や骨を客観的に観察するというのではなく、可動性や動きなどに感情、要求などの心が表現されているのを観察するのです。

 指導者ではなくとも、この野口整体の身体観を理解することは、野口整体を理解する上で欠かせないことであり、一見表面的なことが深部につながっているのです。これは観る眼によって観える内容・捉えることが違うということです。

 それでは内容に入ります。 

野口整体の身体観は「身心一如」の人間観― 「野口整体の身体観」を知ることの重要性

 ① 野口整体の身体観

 このようにして私は、観察で捉えたものを相手が体験した事実と照らし合わせることで、身体は感情体験を物語っていると確信するようになりました。

 師野口晴哉は『月刊全生』対話の要求 9で、自身の取り組んできたこと(「心を見定めるために、体の動きを丁寧に観察してきた」)について次のように述べています。 

一九七二年一月 正月潜在意識教育法講座

 私が五十年間やってきたことは、社会通念ということに対する戦いでした。ちょっと前までは、薬を飲み過ぎるなと言っただけで非難轟々と受ける。薬を飲んだら体が弱くなるのではないかと言うと、もっとみんな腹を立てる。病気でも手を当てて愉気すれば良くなるというと、変わった思想のように思われて非難される。子供の自由を大事にしなくてはいけないと説けば、子供は鍛えなければいけないと反発される。という具合でした。

 それが三十年経つと、私の説いてきたことが常識になってくる。…どんなに常識が変わっていこうとも、人間の心の働きというものは変わらないのです。ですから私はその人間の心を見定めるということに力を注いできたのです。そして私は心を見定めるために、体の動きを丁寧に観察してきたのです。

 師が説く「心を見定めるために、体の動きを丁寧に観察してきた」とは、禅の「身心一如」の伝統に基づく「身心一元論」そのものです。

 師が戦ってきた「社会通念」とは、明治以来の西洋医学や教育、それは近代科学の「心身二元論」を基盤とするものです。特に敗戦後は、科学教という時代風潮でした。

  師は、整体の技術を学ぼうとする人たちに対し、これに先立ち「野口整体の身体観」を知ることの重要性を訴えていました。

 整体操法(急処を用いての技術)を先に覚えると、これを使うことしか考えなくなってしまいがちの人々に対し、師は「処(体の部分)の変化から人間を観る」ことを浸透させる意味を、一九七三年の初等講習会講義録の中で次のように述べています。

 

NO.1 生きている人間を観る

整体操法では、…心も体も分けないはじめから一つのものとしている。

だから顔が赤くなっていれば、当人は「恥ずかしくない」といっても恥ずかしい、「怖くない」といっても蒼くなっていれば怖いと看做す。…その人の言葉を信じるよりは、やっぱり体が表している、怖がっているということの方を信じます。

…その体を観て心を知り、心を知って体を観る。当人がこう言ったからそうだとは思わない。その方が、人間のほんとうの観方なのです。

NO.2 整体操法における処ということ

人間の体というのは、非常に微妙に、どんな小さなことにでも、体に反応します。体の反応は、非常に微妙で、「厭だ」なんていうのは、言葉で言うのは難しいが、体はすぐ、厭なものは厭と拒否反応を起こす。体が硬くなってしまうのです。だから、体は観ていると正直です。

…吾々の立場、「整体」というのは、他と全く違います。それは、処の変化というものから、人間の体を観ていることです。

処から観た人体観

片一方は一杯で酔ってしまう、片方は一本飲んでも酔わない、みんな違います。同じ一本飲んでも酔わない人が、或るとき二、三杯のお酒でぐでんぐでんになるということもあります。…同じ人間でも違う。その違いに適うように、処の変化を使わないといけないのです。だからそのために、相手の個性を知らなくてはいけない。相手の自然の動きを知らなくてはいけない。けれども、相手の訴えを聞いても、相手を知ることはできないのです。いくら相手が「心配だ」といっても、本当に心配しているだろうかというと、自分でもわからないのです。自分のことになると判らない。

…いろいろな体の動作、表情は、心の或る表情としてそれがあります。

 

  

 ② 無心に観察することで観えてくる潜在意識

 このように「人の体に心を観る」ことは、自身の潜在意識のはたらきを通して観えてくるものです(自身の潜在意識が潜在したままでは、つまり現在意識と分離したままでは、そのはたらきは使えない(=意識化できない))。

 これは2に挙げた臨床の知であり、何より直感によるもので、それは自身のも含め経験が基になるのです。

 整体指導(愉気法)を行う者は、初心の時より「無心」を心がけます。芸道や武道では、無心は最終的な境地ですが、師野口晴哉は「整体では初めから無心で行く」と言われていました。無心に観察することで、右の引用文にある内容の理解が進むのです。

 これは、「気」による「身心」の観方・「気」の人間観というものです。師は、「気を観る」ことについて次のように述べています(『整体法の基礎』)。

 …私のように気の感じというものを中心にしてものを感じ取っていくようになると、みんな分かるのです。気を気で感じる。物にならない、事にならない、それ以前の気の動きを感じられる。あるかないかわからなくとも、気というものをエネルギーと仮定すると、人間の動きがよく分かります。

 私は、この野口整体の身体観を、私の十八番である「からだ言葉(からだの一部をつかって感情を表現することば)」を通して伝えたいと思います。

「相手の訴えを聞いても、相手を知ることはできない」と師が語ることについては、相手の現在意識を頼りにしていては、その潜在意識を理解することはできない、ということなのです。

 この潜在意識を理解する上で、相手の身体にからだ言葉を読み取ることは、大いなる手かがりになるものと思います。