野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第一章 野口整体の身心の観方と「からだ言葉」二 1

二 体が訴えている心(潜在意識)を「からだ言葉」で表現する

  今回から二の「からだ言葉」と整体の観察についての内容に入ります。

 整体の観察では「何を観察するか」が一番焦点になるのですが、ここでは、物質的にそこにある「体」を見るのではなく、そこに顕れている感情、心を観るとはどういうことかを、からだ言葉を用いて説いています。

 気というと、生体の持つエネルギーという観点から理解している人も多いのですが、気は心と体をつなぐもの、つまり身体的なエネルギーであり、心的なエネルギーでもあるというのが整体の観方で、気の心理的側面がことに重視されてきたのが日本文化の特徴です。

 それでは内容に入っていきます。 

「気」で観る身体と日本人の「身体性」

 主観的なはたらきである感情は他者から直接(客観的に)見えるものではありませんが、感情が具体的客体として表れた身体(その表情)を通じて、私たちはそれなりに何らかを感じているものです(客体とは見る対象となる物)。

 心(感情)が顔に表れることは誰でも知っていますね。母親が、子どもに対し「あなたの顔には何々と書いてある」と、子どもの「本心が解る」ということがあります。これは何によって判断しているかというと、顔の表情を見て心を感じて(気で顔の表情を観て心を捉えて)いるのです。

 このようにし(気を集め)て、背骨を中心に身体の観察を続けると、その表情を読むことで、心(潜在意識)を識ることができるようになります。

 身体には、顔以上に心が表れているのです。

 日本には、身体の在り様に心を観て取ることで生まれた「からだ言葉」が豊富にありました。

 例えば「目をつり上げる」は怒りの表現、「口をへの字にして」は苦々しい思いの表れ、「腰が決まらない」は心がやる気になっていない(心がまとまらない)ことです。こういうことを体に観、心を感じ取っていたのです。からだ言葉を検証していくと、昔の人は「身体感覚がきわめて鋭敏であった」ことが分かります。

 日本語に、このようにからだ言葉が存在したことは、昔の日本人がいかにも「身体感覚」が高く、自分の身体を通じて、他者(の心)を捉えることができていたと思えるようになりました。

 このことは、実は人との「気によるつながり」を意味しており、かつての日本人は、気によって人の身体全体の表情を捉えることで、相手の心を観ることができていたのです。

 これは、日本人の「身体意識」というものです。

 からだ言葉は、先ず自身で、自分の気持ちや感情を、身体できちんと感じることで、それは主体的体験を基に、他者を観察できるものです。つまり、このような観察能力は自分のことから始まるのです。

 例えば「腰が引ける」は、物事に対し心が消極的になると、文字通り、腰が「後ずさり」する感じになります。このような身体性を自身が感ずることができて、相手の身体にそのような表情を観ることができるのです(共感性)。

 からだ言葉に表されているように、伝統的な日本人の意識は「身体性」と関わりが深いものでした。

 身体感覚が鋭かったかつての日本人は、想いや感情を即、身体に観ることができる「感性(眼)」というものを持っていたからこそ、多くのからだ言葉が作られたのだと思います。このような感性(=身体性)によって、「察する」とか「おもてなし」という文化が育まれていたのです。

 たしかに江戸時代までは、そして私が若い頃までは残っていた「人を観る」ことができるこのような能力について、どのようにして失われていったかが、私の研究テーマの一つです。