第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」二2④
気の思想を基にした「気の医学」と野口整体― 日本の伝統的な生命観・身心観
④呼吸と導引
立川氏は、益軒は人の「生気」である呼吸法を養生における最重要項目に挙げている、と次のように述べています(『養生訓に学ぶ』第二部『養生訓』の方法 2 呼吸と導引)。
「呼吸をとゝのへ」
…益軒は養生の基本として、「呼吸をとゝのへ」る調息法のすすめについて、『養生訓』巻第二で次のように語る。
…気を養うことは「呼吸をととのえる」ことであり、それには呼吸をしずかに、かすかに、そして長くつづけることである。「呼吸は一身の気の出入りする道路」だから、けっして荒々しくしてはならない(息長(おきなが)の術)。
ヨガ・気功など古今のおもな健康法でもっとも大事に考えられてきたのは呼吸法である。健康法だけではない。武芸や体育にしても音楽・演劇にしても、基本は呼吸法である。
あるいは、最近の学生や子どもは「やる気」がないというが、やる気をおこせるにはからだが整っていなければならない。からだが整っていればおのずと「やる気」がおこる。からだを整えることが先決である。そして、からだを整えるいちばんの基本は呼吸を調えることである。だから、まず息を調え、からだを整え、気を整える。そうすれば、「やる気」もおこる。
「丹田に気をあつむべし」
…この「丹田」については、別な条で、「臍下三寸を丹田と云(いう)」と次のように説明し、「胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし」と説いている。
…東洋医学では、臍(へそ)の下三寸にあたる丹田は人間の生命の根本がある場所と考えられていた。…おなじ丹田呼吸法について、『大和俗訓(やまとぞっくん)』巻之八では次のように語っている。
臍下三寸を丹田といふ。人の一身の気を、つねに丹田にをさめて、胸にあつむべからず。…人に交り、事に応じ、物をいふに、まづ心をしづかにして、又気を丹田にをさめて、物をいひ、事をなすべし。是気の本(もと)を立つるなり。本たてばちからありて道生ず。しからずして、気のぼりて、むねにあつまれば、心うごきさわぎてをさまらず。この時ものいひ、ことをなしいだせば、ちからなくて、必(かならず)あやまり多し。学者身ををさめんと思はゞ、心を平(たいら)にし、気を和(やわ)らかにすべし。
…このように丹田に気を集めるようにすれば、「なにか変事があったときも、また人と是非を論ずるときもあやまることがない。道士(道教を修行する人)が気を養い、僧が座禅するのも、みな気を丹田におさめる方法を心がけている」と益軒は続けている。
…「衆人は喉(のど)で、哲人は背骨で、真人は踵(かかと)で呼吸する」といわれる。…整体法ではよく「背骨に息を通す」ということをいうが、それも息が背骨を通って行くことを意識しながら腹式呼吸を行うことである。
…益軒が『養生訓』で言っている「真気を丹田におさめあつめ」というのは、「背骨で呼吸する」あるいは「踵で呼吸する」という境地に通ずる。
野口整体の指導(活元運動と個人指導)で基本となる愉気法の訓練は、「背骨で呼吸する」という脊髄行気法を基にする合掌行気法と呼ばれます。
「行気」とは、気を行(めぐら)して活力を全身に行き渡らせる術であり、この状態を以って人に愉気を行うことができます。
行気は道家(註)の養生法として古来より伝えられているものです。
「気が行く方向に心が動き、気が集まる方向に心がまとまる」ことから、師は、気に引きずられて心が動くのでなく、「心で気の集散を自由に行う」行気法を身につけることで、主体性を保つ意義を説いています(心と気の関係については三で詳述)。
益軒は日常の坐り方についても、「坐するには正坐すべし」と述べています。師野口晴哉の正坐は、「力を発揮する」ことと「休む」こと両方が万全なものでした。
現代、日本人は心が不安定で生きにくく、また様々な心の問題、身体の問題が起っています。
高度経済成長下の昭和四十年代(昭和39年(1964年)東京オリンピック)以後、激変する日本の社会は家の住まい様も変えてしまいました。畳の部屋がなくなり、「坐の生活」を失ったことで、若い人には正坐したことのない人までいます(正坐をしないことで腰の発達がなく、身体を拠り所とできない)。
1970年以降に生まれた人達に、このような坐の身体文化が知られていないことが、若者の「心の不安定さ」の要因の大きな一つになっていると考えています(坐が呼吸法・行気法の基本)。
宇宙原理としての道(タオ)を求め、無為・自然を説いた。儒家の思想は人為的であるとした。儒家の思想が知識人層に広まったのに対して、道家の思想はさまざまな民間思想と結びつきながら、道教へと発展していく。