野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 三 日本人にとっての宗教とは =〔身体〕 ―「整体を保つ」は「身をたもつ」2

「心に主たるものあるべし」という言葉は、岩波書店版の『養生訓・和俗童子訓』の見出しに使われていた言葉です。

 三1に引用した「技術を使う心」(月刊全生)の中で、野口晴哉先生は心と体を使う主体としての自分について次のように述べています。 

…自分の体すら自分で思うようにならなくて健康を求めようとすることは違っていると思う。

やはり自分の体や心の持主であるという自分を自覚させ、そういう立場で心身を使い統制していくことが大切だと思う。だから自分と体を混同して、体が患ったら自分が患ったように思い込んで慌てふためくことは可笑しなことです。これが自動車なら、調子がわるくなっても、どこか油がつまったに相違ないといって掃除します。油が足りないんだといって油をさします。自動車と一緒になって泣き悲しむということはしません。

ところが自分の体になると、もっと身近なせいか切実感がありまして、自分が病人になったような気になってしまう。そういうつもりの人を病人でない立場にもう一回置いて心身を使っていく自分というものをハッキリ見させて、その角度から自分の心身の管理を行なわせるようにするということが、我々の第一にやることだと思う。

 「体や心の持主であるという自分」とは何か。それは普通に言う意志や思考だけではありません。これがここからのテーマです。

〈心につねに主(あるじ)たるものあるべし〉― 生命のはたらきを損なう心のあり方を戒める

立川昭二氏は「身をたもつ」という益軒の教えを、次のように述べています(『養生訓に学ぶ』第一部『養生訓』の思想 1 いのちへの畏敬)。 

 「人身は至りて貴とくおもくして」

…江戸時代には今日の「健康」ということばはなかった。それにあたるのが「身をたもつ」ということばであった。益軒は言う。人はなによりも「養生」をまなんで健康を保つことである。これが「人生第一の大事」である。

…そして、この「人身」つまりからだは天地父母につながるものであるから、「道にそむきて短くすべからず」と益軒はつづける。

こうしたいのちとからだの尊厳への意識から、「身をたもち生を養う」養生ということが、人間にとってもっとも重要な倫理となる。益軒のいう養生はしたがって、たんなる健康法ではなかった、人の生き方の問題だったのである。

  かつて日本には、江戸庶民における「身をたもつ」(養生)、武士階級では「型」(修養)、また禅宗における、栄西の「心身一如」・道元の「身心学道(註)」(修行)など、主体的な「身体性」を育む文化がありました。「教育」も「医療」も、生き方の問題として総合的に捉えられていたのです。

(註)身心学道 心を整えるのに身を先立てるの意。

 急増する抑うつ症などの精神疾患も、生化学(生命現象を化学的に研究する)的に捉えられ、投薬が主たる治療法になり、心は脳の神経活動や神経伝達物質による現象と理解されていますが、「気」で身体を観ると「うつ」である状態(抑うつ症)を観察することができます。

 その時〔身体〕(註)としては、心の動きが止まっていて、頭の中で何かを考えているのですが、それが自覚できていないのです。それは実は、滞った感情によって葛藤している(抑圧した感情エネルギーが意識を動かしている(=雑念的思考))のですが、それを、きちんと自覚することができない状態なのです。

 ある程度自覚できていても、このようなエネルギーによって「自我の主体性」が奪われているのです(これが「コンプレックス」第四章で詳述)。

貝原益軒は『養生訓』(『養生訓・和俗童子訓』岩波書店)の中で、

巻第一 総論上(40頁)

養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿(註)をおさえ、慾をふさぎ(註)て、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿と慾をこらえず、ほしゐままにして、あやまり多し。

 (註)忿(いかり) 仏教が教える煩悩のひとつ。 瞋(しん)(自分に背くこと

があれば必ず怒るような心・種)に付随して起こる。自分の気に入らぬことに激怒して、激しい感情になる心をさす。この心は粗暴な言動(行動)を生み出す。

慾をふさぐ ほしがる気持ちを制御する。

 と、「心に主を持つ」ことを勧めています。

「養生を志す人は常に主体性を持ち事に当たることが大切であり、主体性を持つことは思慮分別による判断をすることができる」と言うのです。

 では「心に主がない」、とはどういうことかというと、これは自分の欲望や感情に自身が引きずられているということです(欲望と感情の二つを、益軒は「内慾」と呼ぶ)。

 先に述べた「うつである状態」とは、このことです。

 この状態は、自覚が多少ある場合もありますが、心の動き(感情)に自身が飲み込まれ、真の主体性を発揮することができないのです(「茫然自失」という時は、完全に「心に主を失っている」状態)。

 抑うつ症が増加している現代の人々にとってこそ、益軒の「心につねに主あるべし」の教えは肝要なものです。

(註)〔身体〕「身心」また身(み)のことで、心の動きや無意識のはたらきを観察する対象。金井先生の造語。