第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 二1
二 心理療法に必須である「自分を知ること」(潜在意識を理解する)を、河合隼雄氏に学ぶ―「自分」を探求するためのユング心理学
人間を理解することは「自分を知ること」から始まる― 科学的診断と人間に向き合うこと
河合隼雄氏は1952年、京都大学理学部数学科を卒業し、高校の教師となりました。面倒見の良い河合氏には、すぐに生徒たちが「相談」に来るようになりましたが、「素人の熱意や善意によって対する」だけでは危険であり非力だという自覚から、氏は、「科学的」方法を身につけることで生徒たちの相談の役に立ちたい、と臨床心理の勉強を始めました。
科学的方法というのは、相談者に対する「客観的」観察によって、その問題点を「合理的」に解明し、これらを基に「普遍的」な治療法を適用することです。
氏は、『「日本人」という病』(潮出版社)で次のように述べています。
「日本人」という病を背負う私
…私は、数学科の出身でしたから、臨床心理をもっと科学的に勉強しなくてはならないと思うようになりました。その頃よく議論になったのは、誰かが相談に来たとき、その人を診断するのが大事なのか、診断よりも、その人を治療することが大事なのか、という問題でした。なぜかというと、はっきり診断して、科学的な判断がないと処置ができないんじゃないかと考えたわけです。もう一方の人たちは、相談者を「こいつ何病だ」なんて怖い目で見ているからダメなんで、まず治療することが大事なんだという考えでした。「診断派」と「治療派」に分かれ、私は「診断派」の急先鋒(真っ先に立って勢いよく行動する人)みたいだったんですね。
でも、勉強しているうちに、これでは自分は人を治すことはできない、なぜなら、自分がそもそも人間を知らないし、自分のこともわかってないじゃないかと思うようになりました。まず人間を知ること、自分自身を知ることが大事だと。
数学科の出身であり、敗戦(1945年)後の時代の趨勢であった科学的思考の持ち主である河合氏は、当時は、診断派=「科学的な判断」による臨床家だったわけです。
しかし、科学的思考の持ち主であった氏は、次第に「自分自身を知る」ことの重要性に気付いて行ったのです。
科学的思考とは「観察するものは、観察されるものを切り離す(=切断し、対象化する)」ことで成り立つものです(科学は知る者と知られる者に分かれることで成立する)。
そして、観察するものの観察するはたらきである理性と、その持ち主の内側の状況つまり自分のことは無関係なのです(理性とは自分からも切り離されたはたらき)。
診断とは相手の症状の訴えを聞いて、分析的に病理を捉え、病名をつける(=科学的に観察し、概念化により認識する)ことです。これは、その人より「異常」を取り出し、これに命名し、命名したものを対象として扱うのです。
これが科学的診断というもので、診断ができれば、良しとされる(唯一とされる)方法を適用できるというものです。
ですから、診断とは人間をまるごと観ることではありません。
ここにある「もう一方の人たち…まず治療することが大事」とは、科学的な診断がなくとも、とにかく相手の訴えを聞き、その人のことを受け取り、考えていくという態度(愛情を持って接すること)が診断よりも大事だということです。これが、ここで言う臨床心理の「治療派」です。ここには経験による人間理解があります(本章三 3で紹介する「臨床の知」)。
病名をつけること(診断)と、「人間を知る」ことは違うのです。症状を対象にするのではなく、症状を訴えている心・その人間に向き合うことです。
野口整体では、先ずは「相手の身体を受け取る」というところに指導の基本があります。受け取れることが、そのまま、相手の心(潜在意識)がはたらき出すことで、これが愉気法です。
受け取るとは、さらに、現在意識の訴えの元にある相手の潜在意識的な訴えを聴き取ることです(例えば、「肩が凝る」という訴えの下に「気に入らない(=または、本人にとって受容できない)ことがあった」という潜在意識的な心を捉えること。このため自分の心が開かれている必要がある)。
野口整体の個人指導の場合と臨床心理の場合では、人の体に触れる、触れないという違いがありますが、ともに、「心のつながり」によって、相手に具わる「心の力」が発動すること(潜在している自然治癒力を含む諸能力が発現する)を前提にしての行為なのです。
診断とは病気を相手にし、愉気法とは人間(身心)を相手にするという相違と言うことができます。