第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 三2②
人の感じる〈心のはたらき〉にある「神」― つながりを教えていた「神話の知」を失った現代
河合氏は同著で次のように続けています。
1 科学の知
「関係性の回復」はどうしてなされるのか。これに対して中村雄二郎は、われわれは科学の知のみではなく、「神話の知」を必要とする、というのである。中村は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれによって構成されている世界とを、宇宙的秩序の内に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求であろう」と述べている。
例をあげて考えてみよう。古代ギリシャにおいて、太陽を四輪馬車に乗った英雄のイメージとして人々が捉えていたとき、彼らは太陽が球体であることを知らなかったのではない。彼らは太陽が球体であることを知っていた。それではなぜそのようなイメージをもつのか。その方がはるかに彼らと太陽との「関係性」が深く濃くなるのだ。
つまり、彼らが「仰ぎみる」太陽や、それが朝に上昇してくるときに受ける「感動」などをもっとも適切に表現しようとするとき、太陽を英雄像としてみるという「神話の知」が意味を持ってくるのである。
ユングはアフリカに旅行したとき、朝日を拝む部族の人々に対して、昼間に太陽を指さして、あれが神かと訊くが誰も肯定しない。そのような問答を繰り返した後に、ユングは彼らにとって、朝日が昇ってくる「光の来る瞬間が神である。その瞬間が救いをもたらす。それは瞬間の原体験であって、太陽は神だといってしまうと、その原体験は失われ、忘れられてしまう」と気づくのである。
太陽を自分から切り離した対象として、それが神であるか、神でないのか、という問いを発しても、アフリカの人々には問いそのものが理解されないのである。
朝日が昇ること、そのときの自分の内的体験、それらが分かち難く結びついていて、全体としての体験が「神」と名づけられるのである。そのような人が「孤独」に悩むことはあり得ないのである。
人間は長い間、神話の知を科学の知と、とりまちがうという誤りを犯してきた。それが多くのいわゆる「迷信」というものである。
啓蒙主義はそれらの多くの迷信を壊してくれたが、それと共に「神話の知」まで破壊しようとした。その結果、われわれ現代人は、科学の知を神話の知ととりちがえる誤りを犯していないだろうか。
近藤
神話の知について「死」を例として取り上げてみましょう。
金井先生は、整体指導者は死生観を確立することが必要だと言っていました。しかし今、自分が生きている現実と連続した死とその後についての見方を確立するのは難しい人が多いのではないかと思います。
また、若い人で神社通いや御朱印帳、参禅、さらには稲荷講や修験道などの行に参加する人も増えているそうですが、これは伝統宗教としてではなく、今迄全く知らなかった新しい世界として捉えているためでしょう。いわゆるスピリチュアルなこと、また先住民族の世界観や霊学などに対する関心も高まっています。
こうしたことも、神話の知と言えるものだと思いますが、神話の知の喪失がこうした心理の奥にあるのではないでしょうか。