野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 三3

 ここから「自分を知る智(自己知)」はいかに啓かれるか」についての内容に入ります。 

近代科学の方法では自分のことはわからない

 河合隼雄氏は、本章二 4の引用文に続き次のように述べています(『「日本人」という病』)。 

話の聞き手がいたことの大事さ

だから、力学の研究で、物の落下を研究するようなのとは全然違うのです。近代科学の場合、非常に大事なことは、客観的に現象を観察するという方法を完全に確立したことです。だから、物が落下するときでも、私とは関係なく観察し、測定し、それを記述する。そうすると、記述している私と関係のない客観的な因果関係がわかってきますから、そこに出てきた法則は誰がやっても通用する。

ところが、フロイトユングは、自分で自分の研究をした。深く深く心を研究していくと、こういうことがある――と言っているわけですから、これは近代科学とは全然方法が違うわけです。つまり、研究する人もされる人も同一人物です。

  「研究する人もされる人も同一人物」という観察態度は、野口整体の指導者における修行法(指導者を目指す人の、自身の心に対する研究態度)においても同様です。

 そして、「自分で自分の研究をする(自分を知る)」という態度は、整体指導者のみならず、指導を受ける人にも必要なことで、それは内側から自分のことを知る、という禅的な態度なのです(これが修養・養生)。

 上巻にも引用しましたが、鈴木大拙氏は、科学にはない「私」を知る智(=自己知)について、次のように述べています(『禅と精神分析』)。 

三 禅仏教における自己の概念

科学者は科学者として、自己とは何かということについては思う存分意見を述べ得ることは疑いもないが、ただしそれだけのことである。もし我々が衷心から、なんとかして真の自己を把握したいと念願するのならば、この科学が追求する方向をいっぺんヒックリ返さなければならぬ(科学は遠心的で、禅は求心的)。

すると初めて自己が内面から把握される。決して外面からではない。これはつまり、自己は自己の内側からのみ自己自身を知るように出来ている、ということである。こう言うと、では、どうしてそんなことが可能であるのか、知識とは、必ず二つに分れて知るものと知られるものとがなければ成り立たぬものではないか、と言いたい人もいるだろう。これに対して私のいわくは〝自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ〟ということである。

   2①の初めに述べた科学的見方とは、また「知るものと知られるもの」に分かれるものです。

 ところが、自分で「自分を知る」という場合、主体と客体が同じであり、また主観と客観が一つになって、初めて可能になるというものです。

「普遍的法則(方法論)」として野口整体の指導を受けるのではなく、自分を深めていくため野口整体を実践する気持ちで、身心を一つのものとして鍛錬していくことです。

 私が「野口整体は宗教である」という所以もここにあります。自分の人生にとって、野口整体がどういう効用があるのか、という自分と野口整体の関係性をしっかり見極めていくことが大切です。