野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 三4

心を受け取る「他者」がいることの意味―「想念と自分」の間に隙間ができることで、自分のことを考える力を養う

  河合隼雄氏は「自分で自分の研究をする」際に、他者が介在する意味について、次のように述べています(『「日本人」という病』)。 

話の聞き手がいたことの大事さ

ただ、ここで非常に大事なことは、ユングフロイトも、自分自身でやっているのですが、話の聞き手がいたということです。やはり、自分だけで自分を分析するということは、人間にはできないだろうと思います。フロイトの場合はフリースという男友達がいました。ユングの場合はトニー・ヴォルフという女性がいました。その人に話をし、ただ一生懸命聴いてもらっているわけです。

聞き手がいるということによって、ある程度の客観化と、ある程度の普遍化が行われる。ある程度であって、絶対的にではありません。自分のことですから。私も、自分のことを知るために分析をしたけれど、聴いてくれる分析家がいたのです。分析家がいるからできたのです。

  私は、『病むことは力』五章と上巻巻頭、本書序章に自身の半生記を書きましたが、ここにも聞き手の存在がありました。その存在ゆえに、ある程度客観的に「自分のことを振り返る」ことができたのです。

 野口整体の個人指導では、「整体・体が整っている」ことを目指すのですが、ここに至るには、「無心」また「天心」と呼ばれる意識になるため、「瞑想的意識(変性意識)」を体験することが肝要です。

 しかし、潜在意識にこびりついた、曇った「想念」のはたらきにより、容易に「無心」になれないことも多いのです。

 どのような「想念」が心身を歪め、その「全体性の発揮(自己実現)」を妨げているかは、当人には分からないものです。自分とある想念が一つになって(密着して)いますから、「想念と自分」の間に一定の隙間ができないと、自身の想念を客観視することができません。これが、自分だけでは自分のことがよくは分からない理由です。

(「自分で自分のことを考える」には、内に向かうはたらきとしての自我(=内界を認知するはたらき)が発達することが肝要)

 それで、親身に自分の内面を観てくれる人(相手の心を観て取れる人)がいることで、「自分で自分のことを考える」ことができるようになるのです。臨床心理における「気付き」も、「観るものと観られるもの」である治療者(カウンセラー)とクライエントが一体となったことによる、クライエントの「感ずる」はたらきなのです(気付きにより潜在意識が開かれる)。

「主観(感覚と感情)」を切り捨てた科学は、自分の外側にあるモノを客観的に捉えるもので、自分の内側にあるもの、つまり「私」、また「私の心」というものを捉える方法は持っていないのです。「客観(理性)的思考」のみでは「心のこと」は分からないのです。

 自分のこと、自分の心について考えるというのは、先ず「身体で感ずる」という主観に依るはたらき「身体感覚」が肝要で、自分の心も、他者の心も、「感ずる」ことによって初めて分かるのです。

 つまり、人が「自分や他人のこと」(人間について)を考えようとするのは、科学的思考によってはできないのです(「切断」によって分かるものと、繋がらなければ分からないものがある)。

 師野口晴哉が説いた、整体であるための「体の敏感さ」は、この、感ずることから「自分のこと」を考える、という目的を含んでいたと思います。感ずることは身体にあるのです。

 こうして得られた自身の全体性によって、他者に向かうことで得られる智が、禅的な自他一如による「臨床の知」なのです。そして、科学は「見られるものが見るものと引き離される」ことによる、自他分離による知なのです。

 ここに私が「科学の知・禅の智」と称する理由があります。

(近藤補足)

「想念と自分」の間に一定の隙間ができるためには、潜在している不快情動に気づき、身体的にそれが鎮まる必要があります。