第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 三5
自分で自分のことを考える「手伝い」をする立場―「気で相手を観る」ことを身に付ける
河合氏は「心理療法を行う立場」について、次のように続けています(『「日本人」という病』)。
病のあとに発揮される創造性
物理学であれば、私が客観的に研究した物の理論を、他の物体の運動に適用できます。でも、私がいろいろ考えた自分のことは、そのまま他人に適用できません。適用はできないけれども、そのときの経験を支えにして、私のところに来た人が、自分で自分のことを考え始めたときの手伝いはできるということです。
そして、最も大事なことは、治療者とクライエント(来談者)の二人の人間関係なのです。悩んでいるクライエントの内的な世界に、本気で一緒に入っていこうという態度で人間関係を作る人がいなかったら、心理療法なんて、こんな苦しいことはできません。クライエントが来られたら、その人が自分の内界の探索をやっていくような場を提供し、それを助けていく人間関係を作り、その人が自分でやれることを手助けする。自分はそういう仕事をしているんだということが、はっきりわかってきたのです。
…「分析はあなたがやりなさい。それを助けます」というのが本当です。数値とかを調べることなく、話を聴いているだけで、だんだん内界に向かっていく雰囲気がでてくる。で、そうするうちに、二人で辛い仕事を一緒にやっていくというのは、お医者さんが患者を治すのとは違うのです。
この河合氏の文章を受けて、私は「整体になる」ことを指導するから、自分の身心についてあなたが考えなさい(自分について考える自我を養い、内界を探索しなさい)と言うわけです。
個人指導における私は、「その人が自分でやれることを手助けする」という臨床心理的な立場でもあるのです。
河合氏がこの文章を書かれたのは、七十歳になられた頃で、おそらく「臨床心理」をされて四十年後に、このように言われているのですが、全く同感です。このような立場が私の整体指導だと思っています。言い換えると「意識が明瞭(整体)になる」ため、意識が不明瞭(不整体)になった心のありように対する「気づき」を手伝う立場なのです。
また、野口整体の場合は「分析」以前があると思います。このことを、「師野口晴哉の眼」というものを通して伝えたいと思います。
私の記憶の中には、師が「じぃーっと私を観ている」という念いがあります。ここから「相手を観る」ということを学んだように思います。
相手に関心を持ち、「気を集めて観る」ことです。
それには、臨床心理として「深層心理の分析」を行う以前に、「自分が無心に観られること」が必要だと思います。「じっと観られる」ことで、自分の中に「内を観る眼」が育ち、「相手の内」を観ることができるようになるのだと思います(心理療法を行う者は「分析を受ける」ことが必須だが、野口整体においては「気を集めて観られる」ことが、分析に先立つ重要な要素)。
野口整体の指導者となっては、先ずは、言語によらない「〔身体〕を観る」、という態度を身につけます。それには自分の中心から相手を観ることをし、後に全身全霊で相手の全体を捉えるという「身心」の構えへと進んでいくのです。