野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四章 野口整体とユング心理学― 心を「流れ」と捉えるという共通点 二 7

自我とは

 ここで、自我とは何かを少し補足しておきたいと思います。

 「私」という自己感覚・自己意識が「自我」というものですが、現代の多くの人は自我のはたらきとしての思考・感情・意志を、外界からの刺激に反応して生じる受動的なものとして捉えています。

 そして、理性の力を強め、支配力を高めることが成長であり、適応力となると考えている人が多い傾向にあります。

 こうしたことが、前回述べた「外界との交渉の主体」としての自我だけが発達しているということです。

「内界との交渉の主体」としての自我というのは身体を基盤とし、外界に反応するのではなく、内界で身体感覚と感情を感じ、理解したり受け止めてなだめたりする主体です。ユングは、内界と外界の真ん中で両方に接していて、その間で調整をし、自己実現を図っていくのが自我の役割であると考えていました。

 今、国内は新型コロナウイルスの緊急事態宣言下にあり、感染症に漠然と不安を抱くのは、ある程度人間の本能的なものだと思います。しかしこういう時、自分の内なる不安や恐怖を自覚した上で、集団心理や同調圧力に流されず、状況を冷静に理解し、何が大切かをはっきりさせて自分の頭で思考し判断するのも、自我の強さによるところが大きいのです。

 また、自我を一定不変のものと考える人も多く、自我には同じ自分を保とうとする傾向もあるのですが、行き詰った時には自分を打破するという内なる「死と再生」を繰り返し、生涯、変化し、発達していくものでもあります(自我の再構成)。

 野口整体では、感受性を外界からの刺激に反応するものとしてだけではなく、その奥には心があり、自発性、主体性が働いていると観ています。そして、内と外の調和を図っていきますが、そのためには「自我がどうあるか」が重要な問題となるのです。

 対話を通じて自分のことを考える力を養う

― 外界への適応のみを重視してきた戦後教育の盲点 

 人は、胎児から幼児の頃まで、「自我」が発達するには、親からの「話しかけ」に依っています。「話しかけ」られることで心が反応してはたらき、言葉を覚えるからです。

 また、身体感覚(全身内部感覚)は意識(起きている時の心)の基盤であり、この中でも皮膚感覚は母親との心身両面でのふれあいの中で、自分という意識の基盤となる重要性の高い身体感覚です。

 そして、話しかけなどの外界からの感覚刺激(はたらきかけ)が、より「明るい(はっきりした)意識」へと発達させていくのですが、乳児のころは、意識の中心に未だ自我がない状態です。

 その状態から成長し、ある時「自分の存在」を自覚する(物心がつく)ようになり、自我が発達していきます。

 こうして、年齢なりの要求に沿って育てられることが、身心の発達を促し、これが継続することで円満に「成長」していくのです。

 ユング心理学で言う、中年期からの自己実現「個性化の過程(内界を啓く)」においても、成長であることは同じです。

 しかし現代では、科学的価値観によって、自我は「外界に対してどうすれば(どうするのが)良いか」を考えるのみとなっているため、自身の感情・要求が分からなくなっています(理性的思考では分からない)。

 日本の戦後教育においては、高度科学的社会に(外界に向かって)適応させるための自我の発達に留まり(理性偏重教育)、個人の内界(感情や内なる要求)を汲み取り、育んでいく態度がなおざりにされてきたのです(敗戦以前の高等学校における「志の教育」の喪失)。

「心の成長」においては、とりわけ「対話」が肝要なのです。

 指導を受ける人たちを通じて思うことは、現代、家庭においても、学校や社会全体においても、「対話」(心が行ったり来たりすること)が十分行われていないということです(上巻第一部 第三章 一師野口晴哉はこれを「愉気が行われなくなったのです」と言った)。

 心は「行ったり、来たり」して発達していくのです。

 しかし現代社会では、幼少期の母子関係で大切な、母子相互の感情面での交流が、阻害される傾向がより強くなっています(親子の体遊び、また共に、きれいな花を愛でたり、小動物を可愛がったりすることは情緒面を育てることになる)。共働きで忙しい母親は、子どもに情緒的な話をする機会を失っている傾向があるからです(専業主婦でも子どもへの声掛けが少ない母親もいる)。

 理性主体の現在意識が活発だと、子どもの様子(その潜在意識)を感受することが不得手となるものです。

 ですから、感情を表現することや、要求に沿った生活を送れなかった人においては、心を受け取る ―「どうしたのか?」、「どうしたいのか!」など ― 、心の中で起きた「感情」や「要求」というものを受け取る存在が必要なのです。

 受け取られることで、その人に「内界を認知する主体」としての自我が育ってき、やがてさらなる「感情」や「要求」を表現できるようになるのです。